後編 決戦! 北の大地の血闘

射手の双眸輝くとき

 毛鹿牧場と坂田、そしてアスクレピオスの相関関係の真相は、めいが見立てたマッチポンプなどではなかった。

 毛鹿牧場の馬を買い取り、その上でヒグマの害に困っていることにつけ込み、めいのことを牧場に教えてクマ退治のハンターとして雇わせた。その一連の出来事は鱶川家の意向によるものである。それに対して、坂田に巨大イトウを売ったのはアスクレピオス釧路支部のガルシアであり、これはガルシア個人の独断専行であった。


 そして今、アスクレピオス釧路支部の地下階。その独房に、渡辺比奈は監禁されていた。白い壁に囲まれた三畳ぐらいの空間に、ベッドとテーブルがあるだけの部屋だ。トイレも同じ部屋にあるが、一応仕切りは作られている。

 無機質な独房は、まるで金属やすりで削るように比奈の心を摩耗させていった。曜日感覚はすっかりなくなり、窓がないせいか昼夜の別もよくわからなくなっている。彼女ができることはただ一つ、親友の無事を祈ることだけだった。


 ――めいちゃん、危ないからこっちに来ないで……


 できれば、このことは警察に任せてほしい。猛獣をボコボコに殴り倒せるぐらい強くても、しょせんは一般人だ。だから、こんな危ない組織の絡んだ事件に首を突っ込まないでほしい……それが、比奈の偽らざる思いだった。


 突然、独房のドアが開き、中に人が入ってきた。そろそろ病院食のような味気ない食事の時間だろうか。そう思って、比奈はテーブルに伏せていた顔を上げた。しかし中に入ってきた人影は、いつも食事を運んでくる無口な下っ端職員のものより明らかに小さかった。

 人影の正体は、ゴスロリツインテ少女、大鰐ゆめだった。その手には、彼女の小柄な体に不釣り合いな大きい和弓が握られている。


「これ、お父さまに買ってもらった新しい弓なの。いいでしょ? ちょうどいいもあることですし、使い心地を試させてもらいますわ」


 ゆめは腰に帯びた矢筒から矢を取り、つがえて引き絞った。そのやじりの先は、明らかに比奈の方を向いている。腕力に見合わないほど張りの強い弓を使っているのだろうか。弓を引く手はぶるぶると細かく震えている。


 ――この少女……大鰐ゆめは自分を殺そうとしている。


「や、やめて……」


 比奈自身、情けなく思えるほどのみっともない声だった。まさかこの年になって命乞いのようなことをするとは思わなかった。

 そんな比奈の言葉に反して、ゆめの手は矢から離れた。放たれた矢は、空気を切り裂き、比奈の背後の壁に弾かれて跳ね、ぽとりと床に落ちた。


「あははっ、いい声が聞けましたわ」


 ゆめは嗜虐心たっぷりの笑みを浮かべながら、次の矢をつがえた。


「わたくしあんまり弓が上手ではないので、当たってしまうかもしれませんわ。もしそのときは……堪忍くださいまし」


 二本目の矢が、放たれた。比奈は右のこめかみに、フッと風を感じた。顔面すれすれに飛来した矢が、音を立てて背後の壁に跳ねた。矢は空中でくるっと回転し、畳の床に刺さった。

 少しでも矢が左にずれていたら、間違いなく鏃が眉間を直撃していた。ただでさえ弱っていた比奈の心は、死の恐怖によって岩崖のへりまで追い詰められた。あと一押しで、海中へ真っ逆さまだ。


「わたくし、あなたのこと嫌いですわ。ちひろお姉さまに色目使って、気に入られて……ドロボーネコとはこのことですわ」

「そ、そんなつもりは」

「うるさい! 立場をわかって言っているの!?」


 本当に、比奈にとっては濡れ衣もいいところなのだ。なのに今、理不尽な逆恨みによって命を狙われている。怒り心頭といった表情のゆめが三本目の矢を取ったのを見て、こんなのあんまりだ、と比奈は思った。


 ……そんないかれるゆめの首根っこを、何者かが後ろからつかんだ。彼女の小さな体は、そのまま独房からポイっと放り出された。


わりィな……うちのクソガキが迷惑かけたな」


 代わって独房に入ってきたのは、狩装束ではなくメンズスーツに身を包んだ鱶川ちひろだった。この間の狩装束姿とは違ってカッチリとした装いだが、それもまたよく似合っている。

 ゆめを締め出したちひろは、床にへたり込んでいる比奈に近づき、その目の前で膝立ちになって目線を合わせた。ほんのりと香水の匂いが漂ってきて、部屋の空気が華やぐのを比奈は感じた。


「本当にどうしようもねェクソガキだ。この綺麗な顔に傷でもつけたらタダじゃおかねェ」


 言いながら、ちひろは比奈の左頬にそっと触れた。手のぬくもりがじんわりと伝わってきて、皮膚の内側の、氷漬けになった部分が少しずつ溶けていくような気分を比奈は味わった。

 ちひろの指先が、つつーっと頬を移動していく。指先は左頬から顎へ、そして喉元を撫でさすっていく。比奈はこそばゆい気分になったが、不思議と不快な感触ではなかった。むしろ、もっとしてほしいような気さえ……

 ちひろの指はするっと顎を撫でると、比奈の肌の上を離れた。すると今度は、比奈の右手に同じ感触を感じた。ちひろは比奈の掌にそっと手を添えると、ゆっくりと持ち上げた。


「手も綺麗だ。いい手をしている」


 ちひろはゆっくり、じっくり、比奈の手に自分の手を這わせている。何だかちょっと、イヤラシイ触り方だ……でも、決して不快な気分にはならなかった。危険な組織の一員だということはわかっているのに、何だかこの人になら触られてもいいと思ってしまう。


「あんた、意中の人がいるンだろ。誰だかは知らんが、その感じだとお相手サンはあんたの気持ちに応えてくれてねェんだろうな」

 

 手を優しく握りながら、ちひろは比奈と目を合わせた。そのとき比奈は、自分の心臓が突飛な跳ね方をしたのを感じた。


 だって、私が心に決めている相手は……

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