毛鹿牧場資料館
「人が死ぬのも最悪ですが……馬が死ぬのもたいへんなんですよ。社長も言ってました。この前馬が売れてなかったら毛鹿牧場を畳まなきゃいけなかった、って……」
「ここで育ててる馬って売ってるんですか?」
門外漢であるめいの素朴な疑問だった。馬の売り買いというのはよくわかっていないが、あの厩舎にいた馬たちはこれから売られてゆくのか。
岩倉は視線をパソコンからめいの方に移して、その疑問に答えた。
「いや、基本的には売らないです。競走馬がレースで得る賞金は大半が所有者、すなわち馬主の懐に入るのはご存じですか?」
「馬主って言葉は知ってます。馬を買って保有してる人のことですよね」
競馬について何も知らないめいも、その言葉は知っていた。馬の維持管理にはお金がかかるので、成功した実業家や芸能界の大御所といった金持ちしか馬主になれないことも。
「ウチはオーナーブリーダーっていって、生産牧場と馬主を兼ねてるんです。生産した馬をレースに出走させて、その獲得賞金によって経営してるんですよ。後は種牡馬の種付け料も資金源になりますね」
「そうなんですか。じゃあ他人に馬を売るのは珍しいってことですか?」
「はい。だからウチは馬を買うことはあっても売ることはないです。とはいえ例外もあって、どうしてもって方にはお譲りすることもありますね。ただウチの馬を買いたいっていうのは相当奇特な方でしょうけど……」
「何故ですか?」
「ウチの馬の評価が低いからです。確か東京でウチの者がパンフレットをお渡ししていると思いますが、そこに「活躍した生産馬」っていうページがあったでしょう」
「読みました。アオナギとかモウカノホシっていう馬がGⅠレースに勝利したっていうのは載っていました」
「その馬たち、どれも古いでしょう? モウカノホシが安田記念を勝って以来、GⅠ馬はウチから一頭も出ていないのですよ。そんな状況では、ウチの生産馬に価値が見いだされるはずもないでしょう」
その話、赤平店主や新堀月菜の話と一致している。自前で生産した馬のレース賞金を稼ぎにしているのに、そのレースに勝てないのでは経営が苦しそうだ。
「そういうわけでウチも経営がカツカツなんですが……以前に健康食品会社の社長さんがイヤリングと未勝利の
「そうなんですか……」
「ああ、長々と話してすみません。今日はお休みください」
「ありがとうございます」
事務所を後にしためいは、寮のすぐ隣に建っている資料館の自動ドアをくぐった。入口からすぐの受付カウンターでは、眼鏡姿の若い女性が座っていて、ハードカバーの分厚い本を読んでいた。
「あ、酒呑坂さん」
カウンターの眼鏡女性は、ぱっと顔を上げるなり話かけてきた。大きな三つ編みのお下げを後頭部から下げていて、レンズの厚い眼鏡をかけている様は、文学少女がそのまま大人になったような印象を与える。
「うちの旦那から話は聞いてます」
「旦那さんですか?」
「イヤリングスタッフに小手川という人がいたでしょう。うちの旦那、酒呑坂さんと社長を事件現場に案内したと言っていました」
「ああ、あの男の人ですね」
めいは事務所に駆け込んできて「し、社長! 大変です! 馬が……」と青い顔して訴えた男の顔を思い出した。
「そうです。私と彼は夫婦なんです。もうすぐ産休に入っちゃうので短い付き合いになるかと思いますが……よろしくお願いします」
カウンター越しにはよくわからなかったが、よく見ると彼女のお腹は膨らんでいた。その大きさを見るに、妊娠からそれなりに経っていて、出産も近そうだ。
「こちらこそよろしくお願いします」
挨拶を済ませためいは、奥の方へと入っていった。内部は縦にいくつもの本棚があって、部屋の一番奥、左右の本棚に挟まれた場所にはドアが開けっぱなしになっている部屋がある。その先の空間には大量のビデオやDVD、そしてそれらを視聴するための液晶テレビが置かれていた。
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