くさいヒグマとのファーストコンタクト

 食事を終えためいは、管理人室に向かった。社用車を借りて、スーパーマーケットに買い出しに行くためだ。


「すみませーん」


 寮玄関の管理人室に向かって声をかけた。すると、ガラス戸が開いて、そこから坊主頭の男が顔を出した。


「社用車の鍵を貸してください」

「鍵ね」


 男は低い声で、無愛想に返事をした。少し経って、男の大きな手がめいの目の前に突き出された。その太い指には車のキーがつままれている。


「あいよ、鍵」

「ありがとうございます」


 キーを受け取っためいは、そのまま靴に履き替えて外に出た。駐車場に向かおうとするめいの目に、奇妙なものが映った。


「あれ……何だろう……?」


 アスファルトで舗装されたメインストリートを、茶色い大きな生き物がのっしのっしと歩いている。馬かと思ったが、体型が違いすぎる。もっと丸みを帯びていて、ずんぐりむっくりしている。


 ――まさか。


「ヒグマ!」


 こんな堂々と牧場の敷地内を歩いているとは思わなかった。このままヒグマが真っすぐ進むと、その先には厩舎がある。ヒグマがスタッフや馬と出くわしたら最悪だ。


「やるっきゃない!」


 めいはスキットルを取り出して、中身をあおった。全身に力がみなぎり、戦う勇気が湧いてくる。今ならまだ、ヒグマはこちらに気づいていない。できれば先手を打って仕掛け、一撃で勝負を決めたい。

 地面を蹴り、素早く肉薄する。ヒグマが振り向いたとき、すでにめいは間合いに入っていた。肉の腐った生臭い匂いが、クマの口から匂ってくる。


「酔滅消臭パンチ!」


 ヒグマの鼻っ面に、思い切り拳を叩き込んだ。普通の人間が殴ったところでびくともしないヒグマが、鼻血を噴き出してのけぞった。


「ヤッ! ホーウアタァー!」


 間髪入れず、めいは攻撃を続けた。左脚のローキック、続いて右ストレートを打ち込まれたヒグマは、もうふらふらだった。そんな中でも、ヒグマは後ろ脚で立ち上がってその剛腕を振り上げた。その背丈は、かつて戦ったホッキョクグマとほぼ同じだ。ヒグマの爪にかかれば、人間など一振りでずたずたにできる。

 

「これでとどめぇ! 酔滅旋風脚!」


 爪が振り下ろされるより先に、めいの繰り出した旋風脚がヒグマの眉間を打った。ヒグマの巨体が、大きく後方に吹き飛ばされる。どんな人間でも発揮できないスーパーパワーだ。

 事務所ドアのすぐ前に仰向けになったヒグマ。その巨体に人感センサーが反応したのか、自動ドアが開いた。ヒグマはしばらくヒクヒク動いていたが、やがて微動だにしなくなった。


「やった……」


 やってしまった……めいの心には達成感とともに、一抹の後悔があった。またしても殺生を重ねてしまったのだ。サメやデスワームはすでに人を殺していた。けれどもこのヒグマはまだ何もしていないのに、こちらから先制攻撃を仕掛けてそのまま撲殺してしまったのだ。さすがに罪悪感を禁じえない。


「酒呑坂さん! すごいです! やってくださいましたか!」


 いつの間にか事務所から出てきていた岩倉が、賛辞の言葉を叫んだ。


「すごい! さすが酒呑坂さん! 私たちにできないことを平然とやってのける!」


 岩倉の後ろからは、鯖江も出てきていた。車でご一緒したときと全く違う、キンキンに甲高い声で賛辞を贈った。


「岩倉さん……私やっちゃいました……」

「何をそんな暗い顔してるんですか! 酒呑坂さんのおかげで、被害を未然に防ぐことができました」

「でも……口がクサかっただけでまだ何も悪いことは……」

「人のいる場所にわざわざ入ってくるようなヒグマは、人間なんか恐れちゃいません。いずれ取り返しのつかない事態になっていたでしょう。だから、悔やむ必要はありません」

「そうだ。人里に下りてきたヒグマは殺す。そうして俺たちは暮らしを守ってきた」


 岩倉の横から、別の人間が口を挟んできた。聞いたことのあるしゃがれ声だ。


「おやっさん!」

「おう、岩倉くん。クマの気配がしたもんでな、寄ってみた」

 

 いつの間にか、あの本山が戻ってきていたのだ。


「あんた、やっぱりホンモノだべ。東雲くんの言っていたことは本当だな」

「はい……あたしがやりました」

「女と狩りするのは気が乗らねぇが……おは戦士だ」


 本山はめいと目を合わせず、ヒグマを眺めながらつぶやいた。

 本山はヒグマのすぐ傍にしゃがみ込んで、その巨体をつぶさに眺めた。しばらく眺めた後、すくっと立ち上がって言った。


「こいつ、クビオリじゃないべ」

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