ヒグマ犠牲者
「お待ちしてました」
事務所で待っていたのは、黒いスーツ姿の中年男性だった。頭頂部ははげ上がっており、顔もしわだらけだが、どこか気品のようなものを漂わせている。その態度は明らかに経営者然としており、人を使う側の人間であることを言外に示している。
「私が毛鹿牧場の代表です。
「酒呑坂めいです」
この黒スーツの人間もまた、怪しい人間に見えて仕方なかった。今のめいの目には、何もかもが怪しく見える。握手を求められたので、おずおずと握り返した。東雲の右手はぱっさぱさに乾燥していた。
「契約金についてはすでに振り込んであります。お手すきの際にご確認ください」
東雲は手にもっていた長4サイズの封筒を手渡してきた。封筒の表には「契約金明細書在中」と朱書されている。
書類へのサインなどは、東京で全部済ませている。すでに契約はなされているのだ。怪しさ満点の契約だが、乗らないという選択肢はなかった。敵は「毛鹿牧場で待っている」とわざわざ指定してきたのだから、比奈を取り戻すにはこうするしかない。
「さて、もう少しで協力していただくクマ撃ち猟師の方がお見えになるのですが……」
東雲がそう語る
「し、社長! 大変です! 馬が……」
「ま、まさか!」
東雲の顔が青くなった。男の言葉で、何かを察したのだ。
「めいさんもついてきてください」
それだけ言って、東雲は男とともに事務所を出た。何だかただならぬ雰囲気だ。めいもその後についていった。
男に導かれるまま、東雲とめいは敷地中央のメインストリートを走り、柵と門で仕切られた放牧地へと向かった。
「こちらで靴を消毒してください」
門のところで、先導していた男に止められた。男の指さした場所を見ると、プラスチックの四角い消毒槽が置かれていた。めいはそこに両足を突っ込んだ。牛や豚のように、馬にも厄介な伝染病があって、それを防止するためなのだろう。
男に導かれるまま、背の低い草が茂る放牧地を進むと、人だかりのできた場所があった。三人はそこに向かった。
「社長、これです……」
人だかりの中にいた若い男が、草地に横たわるものを指さした。それを見ためいは、言葉を失った。
地面に横たわっていたのは、馬だった。いや、確かに馬とわかるのだが、もう原型は留めていなかった。首はへし折られ、腹や尻、顔面に至るまで肉を食い尽くされていた。蹄と脚の肉だけはそっくりそのまま残されているが、あとはほとんど骨までしゃぶられたような感じだ。周囲の草が血を浴びて
馬を襲ってその場で食ってしまうような野生動物……そんなものは、もうわかりきっている。
――ヒグマに違いない。
「イヤリングです……やられたの……」
「イヤリング?」
さっき先導した男に、めいが尋ねた。
「ああ、あなたは確かハンターの方でしたっけ。なら知らないのも仕方ないですね。離乳してから調教に移るまでの、生後半年から一歳の馬のことをイヤリングって呼ぶんですよ」
「そうなんですか。勉強になります」
「サラブレッドは春に生まれて、夏までは母乳をもらって成長します。そこから次の夏までの一年間はイヤリングの
男の話が切り上がったそのとき、後ろから草を踏みつける音が聞こえた。誰かが歩いてこちらに近づいてきている。
「……クビオリがやったんだべ……」
人だかりの後ろから、しゃがれた声がした。めいだけでなく、その場の人間全員が振り向いた。そこには恐らく東雲よりも年嵩であろう、白いねじり鉢巻きをした色黒の男が立っていた。体格はあまりよくないが、いかり肩で、まなじりは大きく吊り上がり、右頬には細長い傷跡が走っている。百戦錬磨の老兵のような雰囲気を帯びた老爺だった。
「おやっさん!」
呼んだのは東雲だった。おやっさん、というのはこのねじり鉢巻きの老人のことだろう。
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