毛鹿牧場
牧場は、山と川に挟まれた平野をくり抜くように造成されていた。三方向を山に囲まれており、門から垂直に行くとその先には川が流れている。
「おお、あなたが酒呑坂めいさんですか。よくぞお越しくださいました」
事務所の自動ドアをくぐっためいを出迎えたのは、ずんぐりむっくりな中年の男であった。太い腕回りや
「私は事務の岩倉といいます。長旅ご苦労様です」
「酒呑坂めいです。よろしくお願いします」
岩倉の微笑みに応えるように、めいは目いっぱいの作り笑いをして、なるべく警戒心を抱かせないよう努めた。今、自分は敵の胃袋の中にいるといっても過言ではない。そうした緊張感が、どうしても表情を硬くしてしまう。
「こちらこそ、よろしくお願いします。独身寮にめいさんの住まいを用意しています。案内しますので、私についてきてください」
岩倉に誘われるまま、めいはキャリーバッグをガラガラ引いて後についていった。事務所を出てそのまま真っすぐ歩き、突き当たりを左折して塀沿いに北側へと歩いていく。
「あなた、ヒグマ退治のハンターの方ですよね?」
「まぁ……一応は……」
ハンター、などと言われると、なんだかむず痒い。狩猟の経験なんてない、ただ生き残るために戦ってきただけの人間なのだから。
「ちょっと意外でした。もっと強そうな方を想像していたのですが」
「そうですよね……信じられないことだと思います」
「最近の牧場はあなたの話で持ち切りですよ。素手でヒグマを殴り倒せる地上最強の格闘家が来る、だなんて」
「あはは……期待外れですよね。こんな細腕の女で」
乾いた笑いしか出なかった。どうやら話はもう広がっているらしい。牧場全体が、妙な期待を抱いているようだ。
「いえ、人は見かけによらない、といいますから。あ、ここが独身寮です」
岩倉は古ぼけた三階建ての建物の前で止まった。この大きな鉄筋コンクリートの建物が、独身寮だという。鮫死森荘よりは大きいものの、あれよりさらにボロく見える。その隣には、同じく鉄筋コンクリートのこじんまりとした小屋が建っている。
「隣は資料館になります。牧場の歴史とか、競馬のDVDなどが閲覧できます。今では絶版になって入手困難な書籍やDVDもありますよ」
岩倉は隣の建物を指さして説明した。ここは情報集めによさそうだ。後で来よう……と、めいは心の中で決めた。
寮の玄関に入っていく岩倉の後についていき、めいも寮に入った。玄関の左側には下駄箱があり、めいはそこでスリッパに履き替えた。右側には小さい部屋があり、引き戸の上の方に「管理人室」と書かれた木の札がある。
「ここが共同トイレになります。トイレは二階にもあります。その隣は大浴場ですね」
一階の廊下を歩きながら、岩倉は淡々と施設の解説をしていく。
「こちらは食堂です。食堂の古田さんは残飯に厳しいですから絶対に残さないように。私たちはどんなに急いでいても、料理は絶対に残しません」
「お残しは許しまへんでぇ!ってやつですか?」
「はい。それはもう凄まじい限りでして……以前、来訪された
「はえ~怖い……ていうか偉い人にそんなことして大丈夫だったんですか?」
「刑事事件になって
「それはまた……その人にヒグマと戦わせればいいんじゃないですか?」
「確かにヒグマはよく鮭を食い残しますからね。それを見れば古田さんも怒り心頭でしょう。いいかもしれません」
岩倉はいかつい見た目に似合わず、からっと笑って見せた。
「酒呑坂さんの部屋は二階です。こちらへ」
そう言って、岩倉は廊下突き当りの階段を上っていった。めいも階段を上ったが、撞木堂で買った酒をギチギチに詰め込んだキャリーケースは重たくて、上るのは一苦労だった。岩倉は階段の上から眺め下ろすだけで、特段手を貸す様子はない。「猛獣を素手で倒す怪力人間相手に、一般人の自分如きが手を貸す必要はない」とでも思っているのだろうか。
ひいこら言いながらようやく上り切っためいに、岩倉は抑揚のない声で告げた。
「二階の二〇二号室が酒呑坂さんの部屋です。こちらです」
息を荒くしながら、岩倉の後についていく。二〇二号室……鮫死森荘で借りていた部屋と同じ番号だ。奇遇なもんだ、とめいは思った。
岩倉は廊下の中ほどで立ち止まった。そこに、二〇二号室はあった。
「明日社長が来られるので、具体的なことはそのときに。明日の九時に事務所で待っています。こちらが鍵になります」
岩倉はめいに鍵を渡すと、足早に廊下を渡り、階段を駆け下りていった。何だかせわしない様子だ。
めいは鍵を開けて二〇二号室に入り、入り口にキャリーケースを置くと、スリッパを脱いで奥に進んだ。何だかちょっと埃っぽくて、めいは鼻の奥がムズムズするのを感じた。
中は細長い構造の1DKだった。鮫死森荘より広いせいか、がらんとしていて寂しく感じられてしまう。液晶テレビや冷蔵庫、テーブルなど、必要最低限のものは一通り揃っている。
「ああ~疲れた……」
長旅で、すっかり疲れてしまった。めいは大の字になって、床に転がった。
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