ベルクマンの法則

 釧路空港の到着ロビーを出ると、ひんやりとした空気が頬を包んだ。まだ初雪の季節ではないが、冬を感じさせるような冷たい気が満ちている。めいはハンドバッグの取っ手に結びつけられたお守りをちらと見た。その昔、比奈からもらったお守りである。


 ――ああ、ひなちゃん。


 めいはバスターミナルに停まる青い軽自動車に向かって歩いた。自動車の側部には大きな白い文字で「毛鹿牧場」と書いてある。牧場の寄越してくれた迎えの車だ。その運転席から三十がらみの女性が降りた。この人物が運転手のようだ。牧場労働者に似つかわしくないほっそりとした体躯で、化粧も濃い目だ。


「酒呑坂めいさんですね。鯖江さばえです。この間はどうも」


 運転手……鯖江の表情は至極にこやかであった。が、そうした友好的微笑さえ怪しく思えてくる。


「はい、そうです。わざわざ迎えに来てくださってありがとうございます」


 めいは恭しく礼をした。が、その顔はちっとも笑っていない。それもそうだ。こんな状況ではあらゆる相手に警戒心を抱かざるをえない。

 めいはキャリーバッグをラゲッジスペースに置き、助手席に乗り込んだ。車が走り出してしばらくすると、鯖江の方から話しかけてきた。

 

「めいさん北海道は初めてですか?」

「はい……生まれて初めてです」

「いいところですよ~。おいしいお酒もたくさんありますし」


 他にもアピールポイントはあるだろうに、わざわざ酒の話を振ってくる……この鯖江という人もを知っているのか。


「は、はい……」


 北海道……一度行ってみたいとは思っていたけれど、まさかこんな形で北の大地を踏みしめるとは思わなかった。できれば、比奈と一緒に楽しく観光したかった。沖縄でひどい目に遭ったことを考えると、平和な北海道旅行をしていてもどこかでトラブルに巻き込まれそうだが。それこそ新種のヤバい危険生物が出てくるとか。


 市街地を離れると、のどかな風景が車外に広がり出した。まばらな民家に、だだっ広い耕作地、生い茂る雑木林。寒冷な土地だけあって、林には落葉樹や針葉樹が多い。

 似たような風景が続く中、めいは鯖江に尋ねた。


「あとどれくらいですか? 北海道って広いですから、やっぱり遠いですか?」

「あと四十分ぐらいでしょうかねぇ……」


 鯖江はすげなく答えた。何だか変わり映えしない景色だ。あくびが出そうになっためいは、車を横切る何かによって眠気を覚まされた。


「えっ、何!?」


 めいは反射的にダッと上体を起こして身構えた。が、横切ったのは一頭のシカだった。やけに立派な体つきをしていたが、それも当然、北海道のシカはエゾシカという種で、本州のシカより体格で優れているのだ。

 「恒温動物において、近縁種では大型の種ほど寒い地域に生息する。同種内では、寒い地域に住む個体ほど体重が重い傾向にある」この法則をベルクマンの法則という。ヒグマやエゾシカがツキノワグマやホンシュウジカより大柄なのはそのよき例だ。


「何だ……シカかぁ……」


 ささいなものにも過敏に反応してしまうのは、きっと悪い癖なのだろう。蛇に噛まれて朽ち縄に怖じるとはこのことか。めいは再び、シートに背を預けた。

 そこからまた、変わり映えのしない風景が続いた。民家もなくなり、緑ばかりの風景となった。うとうとしていると、鯖江が「寝ていても大丈夫ですよ。まだ長いですから」と言ってくれたので、その言葉に甘えることにした。緊張しすぎて、さすがに疲れてきた……


 目を覚ますと、もうすでに空は暗くなりかけていた。左右には開けた草地が広がり、それを仕切る長大な柵も見える。柵の内側には、放牧中と思しき馬が数頭、のびのびと歩き回っていた。


 これが、毛鹿牧場だろう。


 鯖江はそのまま柵沿いに門まで車を進めた。門の左右に一対の太い柱があり、左側の柱には「毛鹿牧場」と刻印されたプレートが埋め込まれている。鯖江はハンドルを切って門をくぐり、そのまま奥の方へ車を走らせた。そして右手側にある事務所の前に車を停めた。

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