第28話 28合目
俺は垂直に立ちはだかる氷壁を見上げ、まず登攀(とうはん)ルートを確認する。さすがに一番上までは見えないが20メートル先くらいまでならば何とか見える。天候が良いおかげだ。けれど、休憩時にドカ雪をくらったことを忘れてはいない。山の天候は急変する。拙速になってはならないが、のんびりしている暇はない。
確認出来る範囲で言うならば、90
「あのオーバーハングは左に
「それが良いじゃろうな。左にトラバースすれば、近くにテラスがあるからの。そこでアンカーを打ち直すのでどうじゃ?」
「そうだな。そこでビレイを取ろう。よし、それじゃあ
俺はモルテと簡単な打ち合わせをしてから、右手に持ったアイスバイルのピッケルの方を氷壁に力強く突き刺す。記念すべき第一投と言ったところだろうか。
そして時間を置かずに左手のアックスを振りかぶり壁に打ち込む。
ザク・・・ッ、ザク・・・ッ!
両手にアイスバイルを持って登攀するダブルアックス方式で俺は登ってゆく。幸いなことに氷壁はガチガチに固まっており、剥がれ落ちるような印象はない。
だが油断は大敵だ。
もしも脆い箇所に突き刺してしまえば、力を加えた瞬間、ピッケルが抜けて滑落につながることになる。
ピッケルを確実に氷壁に突き刺し、更にアイゼンの爪先部分のスパイクを壁へ強く蹴り込み、確保(ビレイ)を確実に取る。
一度に登れる高さは30センチ程度だ。集中力を切らさずにこの作業を延々、堅実に積み重ねて行く。焦ってはいけない。だが、クライミングはいくら道具や技術が進化しようと、結局のところ体重数十キロの人体と重いザックを体一つで押し上げて行く過酷な冒険ということに変わりはない。
結局のところ体力、精神力が肝心なのだ。
「つまり、登山とは自分との戦いってことだな・・・ハァハァ」
決して山と戦っているわけではない。山とはただ畏敬の対象でしかない。人間はその中で自分と向き合うだけだ。
マイナス10度の世界でアイスクライミングをすれば、当然ながら体力は急速に失われて行く。冷気が体温を奪い、乾燥した空気が体内の水分を奪ってゆく。脳に供給される酸素の量が減り、正常な判断力が失われる。
「ハァ、ハァ、コフ、コフ・・・」
5メートルほどを登ると
「記念すべき足跡といったところかな?」
見下ろしてみれば、たった5メートルを登っただけなのにモルテの姿がひどく小さく見える。真剣な表情でロープを握り、こちらを見上げている。ロープさばきは手馴れたものだ。俺が万一、滑落したとしても彼女がロープをピンと張っていてくれれば、今打ち付けた|ハーケンが支点となって俺を落下から守ってくれる。
落下する距離は短ければ短いほうが
「
俺は気合を入れ直してアイスバイルを振りかぶる。ここから上は
俺は無視できそうなカンテはそのまま直登(ちょくとう)し、危険だと感じた部分についてはこまめに避けながら登攀(とうはん)して行く。10メートルくらい登ったところでロープの長さに余裕がなくなってきた。ビレイヤーのモルテにも登ってきてもらうべきタイミングだろう。
「モルテ、良い感じの
「分かったのじゃ!」
俺は言ったとおりの作業をして体を固定すると、モルテに声を掛けて登ってきてもらう。
彼女もダブルアックスで確実にビレイを取りながら俺の辿ったルートを登ってくる。俺の打ち付けたハーケンにより安全は確保されているので、クライマーほどのリスクはない。彼女の場合、小さな体なのでロープを張るのも楽である。
十分ほどであっさりとモルテは登ってきた。
「良いクライマーっぷりだな」
「コーイチローほどではないがの?」
「お二人ともすごいです! よくこれだけの氷壁をスルスルと登れますね! 協会員でもここまでの方はいませんよ!?」
興奮気味に言うシエルハちゃん。だが、まだ10メートルだ。これからがきつくなる。
「20メートル地点にはオーバーハングもあるから大きくトラバースする。その先を少し登ると広めのテラスがあるから、そこで30分ほど
「分かったのじゃ!」
「ところでシエルハちゃん。確かこの辺りはモンスターも多く出るっていう話だったと思うが、そこらへんどうだ?」
「そういった気配はありませんね。クライミング中に飛行型モンスターに襲われると厄介なんですが、そうそう現れるものでもありませんから。あ、それから地上のモンスターはここまで登って来ることはありません」
「大丈夫そうだな。じゃあ2ピッチ目を始めようか」
クライミングではアンカーを打つごとにピッチ数を数えて行く。俺が打ったアンカーにモルテがハーネスから伸びるロープを結着させた。逆に俺は自分のハーネスとアンカーの決着を解いて登攀を開始する。
右手のピッケルを打ち込んで外れないことを確認すると、左足のアイゼンを蹴り込んだ。次に左手のピッケルを打ち込み、そして右足を蹴り込む。
ぐっ、と背伸びをする要領で頭一つ分くらい上へと進むと、打ち込まれていたピッケルを引き抜き、少し上の氷壁へと再度打ち込んだ。
「本当に流れるような作業ですよねえ・・・。スムーズで、止まることがないというか・・・。本当に壁を登っているのか分からなくなります」
「当然じゃよ。わしのコーイチローなのじゃからな」
「そうですねえ。私のコウイチローさんは本当にカッコいいですよねえ」
少女二人が何やら言い合っているが、山に集中している俺にはよく聞こえない。ともかくアイスバイルを振るい、アイゼンを強く蹴り込む。
そうした地味で、エネルギーの必要な作業を何度も何度も繰り返し、ゆっくりとだが確実に高度を稼いで行った。
オーバーハングまであと3メートルほどの高さまで来た。と、その時、強い風が吹き抜けた。天気は快晴だが無風とは行かない。特に山では吹き降ろしの風がいつでも吹くものだ。
「ゼ・・・ハア、ハア・・・風が出てきたみたいだな・・・」
俺はダブルアックスとアイゼンで氷壁に張り付きながらポツリと呟く。
と、今の強風のせいだろう。頭上から軽く雪の欠片が降り注いで来た!
「くっ!?」
だが、幸いながら直上にオーバーハングした岩があるために、まともにかぶることはなかった。
くそ、上の方で雪崩があったみたいだな。俺の方は大丈夫だったが・・・下はどうだ!?
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