11
風邪をひいた日から数日。すっかり元気になったエメは、ユリアーネとともに騎士の詰所を覗き込んだ。
「エメ坊ちゃん!」
詰所で休憩をしていたらしい数人の騎士たちが目を丸くする。エメが微笑みかけお辞儀をすると、ぐっ、と目元を押さえたり目頭をつまんだりする者がちらほら。エメは首を傾げつつ、詰所の中を見回した。
「もしかして、ラース小隊長を探してるんですか?」
騎士のひとりが問いかけるので、エメはこくこくと頷いた。あー、と騎士はどこか困ったような表情になる。
「今日はお休みなんですよ、小隊長」
エメはユリアーネを見上げた。ユリアーネは珍しく少し躊躇いを見せ、言葉を選んでいるように見える。
「その……ラース様はお出掛けになるのです。申し訳ございません。エミル様をお探しになっているのかと……」
顔をしかめるユリアーネに、エメは首を振った。こういうとき、声を出せないというのは非常に不便だ。最近できるようになった文字で書いて見せればよかった。
「……ラース様はまだお出になっていないはずです。門でお待ちになれば、お会いできるかと」
ユリアーネの言葉に、騎士たちがざわめく。うかがうように彼女を呼ぶ騎士にエメが首を傾げると、参りましょう、とユリアーネはエメの背中を押した。
珍しく何も言わないユリアーネを不思議に思いつつ、エメは王宮の門の前でラースを待つ。エメが説明を求めるように見上げても、ユリアーネは何も言わなかった。
「――エメ?」
声が聞こえるので振り向くと、ラースが歩み寄って来た。その表情はいつもの険しさを消し、驚きの色を湛えている。
エメはラースに飛び付き、首を傾げた。いつもの鎧姿ではなく、どうやら私服のように見える。腰には愛用の剣を携えているので、街の外へ行くのかもしれない。
「何をしているんだ」
「……エメ坊ちゃまがお探しでしたので」
静かに言うユリアーネに、ラースは眉をひそめた。
「一緒に連れて行って差し上げてください」
「…………」
ラースはしばらく考えるように黙り込んだあと、エメの頭を優しく撫でた。少しだけ表情を緩める。
「そうだな」
ユリアーネは優しく微笑む。ラースは肩をすくめ、エメに手を差し出した。エメはふたりの表情を不思議に思いつつ、その手を握る。いってらっしゃいませ、とユリアーネが辞儀をしてふたりを見送った。
厩に愛馬を迎えに行く。いつものようにエメを前に乗せまたがると、ラースが小さな声で言った。
「俺以外を乗せるのは、マルクスだけだったんだがな」
エメが首を傾げて見上げても、掴まっていろよ、と言うだけでラースは応えない。今日のラースはおかしい、とエメはそんなことを考えていた。
* * *
マルクスは幼い頃から病魔と闘っていた。体が弱く、まともに外を出歩くこともできなかった。たまに調子の良い日は、こうして馬に乗せてゆっくりと草原を散策したものだ。ラースの愛馬は気難しく、ラース以外は触れることすら許さないが、マルクスは別だった。いくら触れても蹴り上げることはなく、あまつさえ乗ることを許していた。
マルクスは不思議な子どもだった。彼が微笑めば周りも笑い、マルクスが悲しめば彼を笑わせようとする。愛されるために生まれて来たような子どもだった。
エメはマルクスに似ている。もしかしたら、マルクスを知る者はみなそう思っているかもしれない。まるでマルクスが戻って来たような、そんな感覚にすら陥る。
馬をゆっくり歩かせながら、王宮の裏へ向かう。ラースの目的地は、自然の中に静かに佇む霊園だ。
エメを馬から下ろし、手をつなぐ。エメが見上げてくるので抱き上げてほしいのかと手を出すと、エメは首を横に振った。それから、霊園に視線をやり、またラースを見上げる。どうやら、ここに来たのが不思議らしい。
「……弟の墓があるんだ」
ラースが静かに言うと、エメは少しだけ眉根を寄せた。
「お前に話す必要はないと思っていた」
エメは少し不満げにラースを見上げる。その表情には、少しだけ悲しみの色が湛えられていた。
マルクスの墓には、常に花が供えられている。王宮の者たちが頻繁に来てくれているのだろう。その花は青色が多い。マルクスが好きだった色だ。
墓石の前に花を置き、エメは手を組んだ。ラースも同じように祈りを捧げ目を開くと、エメはまだ目を瞑っている。ややあって、エメは顔を上げた。
「ずいぶん長かったな」
ラースがそう言うと、エメは静かに微笑む。
「弟が生きていたら、ちょうどお前と同じくらいの歳だ。子どもの頃から体が弱くて、永くは生きられないと言われていた。あの年まで生きたのが奇跡なくらいだ」
両親も王宮に仕えていたため、弟とともに王宮で暮らしていた。弟は多くの者から愛されていた。
エメが手を平らにして頭の上のほうにやる。ラースは顎に手をやりしばしその意味を考えたあと、ああ、と呟いた。
「両親か?」
エメはこくこくと頷く。
「両親も亡くなった。母は弟を失くしたショックで塞ぎ込んでそのまま。父は任務中にな」
ラースはあくまで淡々と言うが、エメは悲しげに眉をひそめる。エメも盗賊団に家族を殺されている。ラースが感じているはずの悲しみを覚えているのかもしれない。
「弟が
弟は永くは生きられなかった。訃報が届いたときになぜか、やはり、と思った。しかし、弟が一番に苦しんでいるときにそばにいてやれなかったという罪悪感は募った。
ただ、悔いは残らなかった。弟が生きていられるあいだ、持てる限りの愛を伝えようと思っていた。少し甘やかしてしまったかもしれないが、弟はわがまなを言うこともなく、いつも微笑んでいた。幸せそうだった。もっとわがままを言ってもよかったのに。
弟は幸せだったのだろう。ただの希望的観測かもしれないが、一身に愛を受けた日々が、彼を微笑ませたのだろう。
「エメ。お前は弟に似ている。弟も、お前のようにいつもニコニコしていたんだ。体調が悪いときでもな」
呆れをはらんだ声で言うラースに、エメは遠慮がちに、困ったように小さく笑った。
弟には口癖があった。
『兄さん、元気?』
毎日は会えなかったが、時間があるときは必ず弟のもとへ行った。そのとき、弟は決まってそう言うのだ。
『ああ』
そう応えると、弟は嬉しそうに笑った。
お前は? と訊き返すことはできなかった。病気の人間に対して元気かどうかなど問うたところで、無理やり作った笑顔を返されるのが関の山だ。
「……辛かったろうな。体が弱いし体力もないしで、まともに歩くこともできなかったからな」
弟が弱音を吐くことはほとんどなかったが、極たまに弱気になるときがあった。たとえ日々幸せに過ごしていたからと言って、死への恐怖を感じないことは有り得ない。怖いと言いながら、弟は静かに泣いていた。その恐怖を取り除いてやることはできなかった。弟が最期に何を思っていたのかは、誰も知る由がない。
「弟は我慢強かったが、我慢しているなんてことはすぐにわかる。俺に我慢は通用しないと思え」
ラースが不敵に笑うと、エメは、わかった、と言うように微笑んだ。ラースは乱暴に頭を撫で回した。
* * *
「マルクスさん、ですか」
書類に目を落としたまま言うエミルに、ニコライは頷く。
「小隊長の弟さんっス。今日が命日なんスよ」
「そうですか」
「いつもひとりで行くんスけど、エメ坊ちゃんを連れて行ったのは、どういう心境の変化があったんスかね」
訃報が届いたとき、ラースは欠片も取り乱したりしなかった。訃報を届けに来た遣いをそのまま帰らせ、任務を続行した。中には薄情だと言う者もいたが、ラースは自分の感情より部下たちの安全を優先した。ただそれだけのことだ。ラースがどれだけマルクスを愛していたか、それを知っているからこそ、ラースの背中は痛々しかった。
「エメ坊ちゃんは、マルクス坊ちゃんと似てるっスからね」
「……辛くとも、幸せそうに笑うのでしょうね」
「幸せだって思って眠ったんなら、それ以上に良いことはないっスね」
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