10
翌朝、エメの部屋の前に昨夜から立っている衛兵に声を掛け、ニコライは静かにドアをノックする。まだ起きていないことは確認済みだ。なるべく音を殺して部屋に入ると、案の定、エメはまだベッドの中にいる。寝顔を拝もうと覗き込んだニコライは、ハッとしてエメの頬に触れた。
「失礼します」
極小声で言って、ユリアーネが部屋に入って来る。
「おはようございます、ニコライ様」
「ユリアーネちゃん。坊ちゃん、熱あるかも」
「えっ」
目を丸くし、ユリアーネは一瞬だけ取り乱しそうになったようだが、すぐ気を取り直して辞儀をした。
「ボニファース医師をお呼びして参ります」
急いで部屋を出て行ったユリアーネが、申し訳ございません、と早口で言うのが聞こえた。それから走り去る足音のあとに、ラースが部屋に入って来る。
「なにを騒いでいるんだ」
「坊ちゃんが熱があるみたいで」
「なんだ、そんなことで騒ぐんじゃない。子どもが熱を出すのは珍しいことじゃないだろ」
「それはそうっスけど……」
ラースはひとつ溜め息を落とす。エメは顔の半分まで布団を被っていてラースから顔は見えないが、ニコライは心配そうに覗き込んでいる。
布団がもぞりと動くと、あ、とニコライが首を傾げた。
「坊ちゃん。体、しんどくないっスか?」
エメは弱々しく首を横に振る。しかし、起き上がる気力はないようだ。おいたわしや、とニコライが頬を撫でる。
部屋にユリアーネが戻って来て、それに続いて王室付きの医師ボニファースが入って来る。ユリアーネは、心配そうにエメの顔を覗き込んだ。それから顔を上げて言う。
「ラース様、ニコライ様。エメ坊ちゃまの看病は私にお任せください。おふたりにうつっては大変ですわ」
「……わかった。行くぞ、ニコライ」
ラースが頷いて部屋を出ると、少し躊躇いを見せてからニコライもそれに続いた。ユリアーネはひとつ安堵して、ボニファース医師に診察を促した。
* * *
「ただの風邪、だそうです。疲れが溜まっていたのでは、とボニファース様は仰っていました」
様子を見に来たエミルに、ユリアーネはそう話した。エメはよく眠っている。頬を撫でるエミルはいつもの無表情のままだったが、心配しているのが伝わってくる。
「外にニコライさんがいます」と、エミル。「何かあったら申し付けてください。僕を呼んでいただいても構いません」
「かしこまりました。ありがとうございます」
では、と軽く辞儀をしてエミルは部屋を出て行く。
本当は三人とも心配でならないだろう、とユリアーネは思った。ずっとそばにいたいはずだ。だってエメ坊ちゃまがこんなにもお辛そうなんですもの、と考えると涙まで出てきそうになる。できることならば代わってあげたい。しかし自分が風邪をひいたら誰がエメの世話を、とそんなことを考えながら布巾を水に濡らして絞る。
いけない、いけない、と頭を振る。いまは感傷に浸っている時間はない。誠心誠意をかけて看病しなければ。
エメのひたいを拭いながら、そういえば、と考える。
これほどまでに心が揺さぶられたのは、いつぶりだろう。
ユリアーネは貴族の出だが、家は没落した。この王宮に仕え始めたのも、親戚の伝手を頼っただけである。家の没落、それと同時に潰えた夢。はて、夢とはいったいなんだったろうか。もう忘れてしまった。それくらい、すべてがどうでもよかった。そうして感情が失われてどれくらい経ったろう。そんなときに現れたのがエメだった。澄んだ青色の瞳がこちらを見つめたとき、心の中で固まっていたものが解かされたような気がした。ラースにははしたないと怒られてしまったが、誰かの帰りが待ち遠しくなるなどということは、いつぶりのことだったかもうすっかり忘れてしまった。エメが笑いかけてくれると、こんな自分にもまだ価値があるのかもしれない、とそんな気になる。
(……まるで、マルクス様が戻っていらしたみたい)
すっと頬を撫でる。まだ痩せこけてはいるが、保護されたばかりの頃に比べたらずいぶん丸っこくなった。
(マルクス様がご存命だったら、ちょうどエメ坊ちゃまと同じくらいの歳かしら……)
おそらくマルクスのことを忘れた者は、いまの王宮にはいないだろう。マルクスの笑顔は雪解けの日差しだった。
ラースが大事にしていた、唯一無二の弟だ。
マルクスは幼い頃から病魔に体を冒されていた。あまり自由に駆け回ることはできず、いつもベッドの上で過ごしていた。それでも、誰かと目が合えば微笑む優しい子だった。マルクスが亡くなったとき、悲しみに暮れた者は多い。
その日、ラースは遠征に出ていた。よくある話だ。大事な人が亡くなったときに、そばにいられなかったと悔いることは。あの鬼とまで言われたラースが、誰から見ても落胆していたのはとても痛ましかった。
(……そうだわ。エメ坊ちゃまは、マルクス様に少し似てらっしゃるんだわ。だからラース様も……いえ、ラース様が坊ちゃまを大事にするのは、そればかりではないわね)
エメは不思議な子どもだ。まるで愛されるために生まれてきたようだと、そう思わずにはいられない。それなのに、なぜ過酷な目に遭わなければならなかったのだろう。
(癒し手……。まるで呪いのようだわ)
きっとエメは、大事なもののためなら迷わず躊躇わずその力を使うだろう。自らの命と引き換えに。
エメが最期の時まで笑っていられることを願わずにはいられない。そのために自分の力が役に立つなら、いくらでも尽くして見せる。命を懸けても。
昼を過ぎると、同僚からの差し入れだとニコライが本とアップルパイを持って来た。それから、エメに飲ませてあげてくれと言ってスープを差し出す。
「……なぜ本を?」
「暇潰しだそうっス」
「私はエメ坊ちゃまから一時も目を離しませんが?」
「そう言うと思ったっスけど。スープは冷めても不味くならないように腕によりを掛けたって料理長が言ってたんで、起きたときにも飲ませてあげてほしいっス」
ユリアーネが本を受け取ると、そんじゃ、とニコライは明るく笑ってドアを閉めた。その本は確かにユリアーネが好きそうな題名のものだ。
ひとつ息をつき、ベッドのそばの椅子に腰を下ろす。好意には違いない。ありがたく頂戴するとしよう。
* * *
エメの唸り声でユリアーネは目を覚ました。
いつの間にか居眠りをしてしまっていた。窓の外には月が見え、部屋も真っ暗だ。ユリアーネはランタンに火を灯し、ベッドに歩み寄る。エメがうなされている。
「エメ坊ちゃま。ユリアーネがここにいますわ」
すっかり温くなった桶の水で布巾を濡らし、エメのひたいに浮かぶ汗を拭う。優しく胸のあたりをたたくと、安心したように、寄せられた眉が少しだけ緩んだ。
「ユリアーネがついていますわ」
次第に呼吸と脈拍が落ち着いてくる。ユリアーネは、居眠りしてしまったことを悔いた。エメはいつからうなされていたのだろうか。かすかな音でも目を覚ます自信があるが、もしかしたらずっと前からうなされていたのかもしれない。実に不甲斐ない。自分がついていながら。
「――……」
木々が揺れた。風がざわめく。
「……いるわ」
「――御意」
影が走る。弱くなる風の音に、ユリアーネは舌を打った。
「……坊ちゃま。ユリアーネがお守りしますからね。何があっても。命を懸けても」
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