5-3

 午後、エミルがエメの部屋に来た。その手には分厚い本が三冊ある。思っていたより勉強は大変なのかもしれない。

 どうぞ、と促されて机についた。

「なんにしても、まずは読み書きですね。新しい魔法を覚えるにしても、文字が読めないのでは覚えられません」

 分厚い本を前に思わず固くなるエメに、エミルは彼の肩に手を置いて優しく言った。

「読み書きができないのは、珍しいことではありません」

 エメは首を傾げ、エミルを見上げる。

「街で暮らす者の中には、学校に通う余裕のない者もいますからね。仕事をするだけなら、読み書きができなくてもこなせます。自分の名前を書ける程度という者も多いです」

「でも、この教材じゃ難しくないっスか?」

 横から顔を出したニコライが机に置かれた本を見て言うと、エミルは思いきり顔をしかめた。

「口出ししないでいただけますか」

「いや、だって、坊ちゃんは初等教育から始めるんスよね?この教材はどう見ても中等教育っスよ」

「読み書きの勉強に初等も中等もありません」

「あるって! まずは簡単なやつから始めないと!」

「うるさいですよ。貴重な時間をあなたに使っている暇はないんです。邪魔なのであっちに行ってください」

 エメの教育の話になると、ふたりは喧嘩をしがちだ。エメはどちらの話を聞けばいいのか、止めたほうがいいのかがわからず、おろおろとすることしかできない。

「だってこれ、どう見たって魔法書じゃないっスか」

「魔法使いとして勉強するんですから、当然では?」

 そうしてふたりはしばらく言い争いを続けたが、エミルがニコライを無視することを決め込んだことで終着した。最後までニコライは不満げだったが、口を出しても無駄だと悟ったらしい。いまは窓のそばで本を読んでいる。

「まずは文字を書けるようになりましょう」

 エミルの書くお手本を見ながら、ノートに文字を書き起こしていく。見覚えがあるものばかりだが、自分の手で書いたのは記憶している中では今日が初めてだ。

 時間をかけてエメが書いた文字を見て、エミルは彼の頭を撫でながら言う。

「とても丁寧で良いですよ。練習すれば綺麗に早く書けるようになると思います。素晴らしいです」

 褒められたことが嬉しくてエメが思わず微笑むと、エミルの表情が一瞬だけ固まったような気がした。エミルはすぐ無表情に戻り、それでは、と続きを始めた。


   *  *  *


 勉強が終わり、ユリアーネが淹れてくれたお茶を飲んで三人がのんびりしていると、ラースが部屋に入って来た。

「おかえりなさいっス、先輩」

 ニコライがのん気な笑みで出迎えると、ラースは厳しい表情でエメのもとへ来る。

「勝手に部屋を抜け出したらしいな」

 低い声でラースが言うので、エメは今朝のことを思い出す。ラースが怒るのは当然だ。そばに誰もいなかったからこそ、勝手に部屋を抜け出してはいけなかったのだ。その結果としてユリアーネにも心配をかけさせてしまった。

 そうか、とエメは心の中で呟く。自分は貴重な【癒し手】である。きっとそのために王宮で保護されていて、いつかこの力を何かに使われる時がくるのだろう。だから、勝手なことをしたからラースは怒っているのだろう。

 エメが立ち上がって頭を下げると、ラースは彼と視線を合わせるように腰を屈めた。

「みなが心配するのは、お前が大事だからだ。最上位エクストラスキルを持っていようがいなかろうが、エメというただひとりの人間が、みなにとって大事なもののひとつになったんだ」

 厳しさを消し優しく肩に触れながら言うラースに、エメは目を丸くした。ラースは静かに息をつく。

「俺の言っていることがわかるか?」

 エメは小さく頷いた。

 最上位エクストラスキルを持っていようがいなかろうが。つまりエメが【癒し手】でなかったとしても、彼らにとってエメが大事な人になっていたということである。

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