第37話 神々の符丁
真横から藤亜十兵衛に十数条の光矢が突き刺さり、神楽坂蘭の視界外へと弾き飛ばされた。
「…………え?」
蘭の首がぎこちなく、十兵衛が消えた方に向いた。
彼女には何も聞こえなかった。
藪から出てきた甚八が、光の矢が飛んできた方向に素早く銃撃した音も。
森人の少年義勇兵二人が何かを叫びながら矢を放つのも。
突如、崖下から現れた魔狼のポチが自分を庇って悲鳴を上げたことさえも。
何も耳に入らない。
「十兵衛………………」
少女の視線の先で、幼馴染みの少年は地に伏していた。
運良く、立ち木に当たって反対側の崖には落ちなかったが、十兵衛の左体側にはいくつもの穴が開いており、じわりと血が流れ始めた。
少年はピクリとも動かない。
少女の喉はひりついて悲鳴も出ない。
心臓が痛いくらい脈打つ音が耳に響く。
涙で歪む視界の中で、息苦しさに耐えきれなくなった身体が空気を求め、行き場を失った感情が吐き出された。
「――――――十兵衛!!!」
蘭は弾かれたように駆け寄り、泥の中で伏したままの十兵衛を抱きかかえた。
泥と雨で濡れた少女の軍袴が少年の血で染まっていく。
頬を引っ付けて、ごく僅かな鼓動と呼吸さえも見落とさないと、掻き毟るように十兵衛を抱きしめる。
そこで初めて蘭は十兵衛が生きていることを―――呼吸していることに気が付いた。
気を失っていた十兵衛も目を覚ます。
「――十兵衛!!」
「…………蘭、魔力……くれ」
十兵衛のか細い声の意味が分からず、蘭の一瞬動きが止まったが、すぐに何をしようとしているか気が付いた。
彼女は何かが抜けたように落ち着きを取り戻した。
「…………隠し彫りね」
「ああ」
そこまで分かれば、蘭は何も悩まず実行する。
まともな魔術を使えない十兵衛が、いざというとき死なないようにと施した治癒術の隠し彫り。
背中に施した魔術刻印の入れ墨である。
十兵衛本人の乏しい魔力量ではなんとか一回発動できるかどうかだが、術士で、さらにそれを堀り込んだ本人である蘭ならば数回は起動出来る。
何度か淡い光を発して傷口が塞がったが、完治にはほど遠い。
それでも出血は大方止まったし、脇腹の大きな穴も塞がった。
十兵衛は抱きかかえられたまま指示した。
「蘭、アニキへ――加藤副将に逓伝しろ」
「あなたを見捨てていけるわけないでしょ!」
「良いから聞け! 蘭は魔力切れ手前だろ! 邪魔だ! ここは俺と甚八さんで時間を稼ぐ!」
「――――う、くっ…………」
言葉に詰まった蘭の近くで爆音が響いた。
振り向けば立ち上る黒煙と土煙。
爆炎系魔術による攻撃に背筋が凍る。
革帯に残った数少ない呪符――視界を遮る暗黒と濃霧を、仲間を巻き込まない距離で発動させて時間を稼ぐ。
「蘭、我が儘言わないで伝えろ! 『神々のチェスが再開される』。そう言えば加藤副将はすぐ動く!!」
「……ちぇす?」
初めて聞く単語に聞き直す蘭だが、今はそれを説明することすら惜しいほど状況が厳しい。
「俺と加藤副将で取り決めた符丁だ! 覚えたか!? 覚えたら復唱しろ!」
「神々のちぇすが再開される……」
「よし! じゃあ、ポチと一緒に行け!」
十兵衛はさっきとは逆に蘭を抱きしめながら立ち上がると、爆炎を喰らいながらも二人を庇い続けていた魔狼のポチへと突き飛ばした。
森人の少年義勇兵二人――――アミンとクミンも呼び寄せ、そのまま蘭に押し付ける。
「十兵衛、あなたはっ!」
「敵はあの
そう言われて、蘭は初めて幼い顔付きの森人の少年義勇兵を見た。
二人とも怯えた表情を浮かべて蘭に縋り付いている。
そんな…………。
一緒にいたい。
一緒に戦いたい。
私はここで死んでもいい。
だけど、この子たちは…………どう、なるの。
私が巻き込むの?
この子たちを――――。
満身創痍の少年は、縋るような少女の視線を真っ正面から受け止めた。
「十兵衛………………」
「俺は死なないっ! 魔力切れは邪魔だから、さっさと行け!」
十兵衛の突き放す言いように、蘭は俯いて下唇を噛みしめた。
冷静に考えれば、逡巡も一瞬で終わる。
でも、感情では納得できない。
だけど、十兵衛を信じている。
今までも、今も、これからも。
蘭は幼い頃の癖で、十兵衛の胸に右拳を叩き込んで叫んだ。
「――――この馬鹿! 私が戻るまで死なないでよ!」
何年振りだろうか――――。
蘭が顔を真っ赤にして、殴ってくるなんて。
元服を迎えてからは、人目を忍ばなければ馴れ合うことなんてなかった。
まして、家督簒奪と共に義兄から奪い返した後は、彼女はいつも一歩引いていた。
ふと昔に戻ったような錯覚。
場違いなほど自然と頬が緩んだ。
「おう。死なねぇよ」
全てが決まると今までの遅れを取り戻そうと、何もかもが素早く動き出す。
蘭はポチの背中に素早く飛び乗り、森人の少年を背中にしがみつかせた。
それを確かめると振り向くことなく、魔狼のポチを港町に向けて駆け出させる。
山道を恐ろしいほどの勢いで駆ける黒い魔狼はあっという間に遠ざかっていく。
その姿を確認してから、十兵衛は敵方へと向き直った。
蘭が最後に使用した濃霧と暗黒はもう少しだけ保つだろう。
何せ足下すら見えなくなる術だ。
多少道幅があるとはいえ、両脇が崖の尾根道で足下さえ見えないのだ。
そのまま突っ込んでくる馬鹿はいない。
「甚八さん、ここで俺と死んでくれ」
「いいすっよ。でも、まあ、なんとか生き残りましょうか」
甚八は血気盛んな雇い主を一瞥し、それからゆっくりと笑いながら答えた。
もちろん甚八はここで死ぬ気は無い。
さて、どうやって言いくるめようかな。と、彼は土砂降りに変わった雨に打たれながら考え始めた。
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