第30話 腕の中の幸せ

「クッソ…………最悪な、気分だ…………」


 藤亜十兵衛は、神の宣告を受けて目覚めると開口一番にそう呟いた。


 いま彼が居る場所は、昨日逃げ込んだ山小屋の中。

 敵に見つからぬように。と、閉じきった立て付けの悪い雨戸の隙間から差し込む陽の光は朧気で、まだ夜は完全には明けていないと判断する。

 その事実に安堵すると共に、言い様もない腹立たしさがその心を焼き尽くす。

 夢の中とはいえ、神に殴り掛かるが躱され、今も続くトラウマを抉られ、しかも一方的な使役宣告。

 気にくわないとはいえ、蘭を守るためには具現する界獣を倒さなければならない。

 しかも具現するのが『自分の近く』であるならば、接敵するのは必然であり、神の宣告も外れることはない。


 藤亜は一瞬蘭だけを逃すことを考えたが、どうしても出来ないことを悟り諦めた。

 幼馴染みにはまだ藤亜の庇護が必要であるし、ましてやオルデガルド帝国とは戦争中だ。

 味方しかいない鳴り子城でも着任直後は、蘭が性奴隷だから『俺に使わせろ』と言い出す輩が多かったのだ。

 あの時は藤亜の鉄拳で理解させたが、敵である茨十字騎士団にそれを望むのは愚か者だ。

 麗しい少女が敵兵に捕らえられたら、どんな仕打ちを受けるかは考えるまでもない。


 苛立つ…………神にも、オルデガルド帝国にも。

 存在そのものが目障りだ。


 藤亜は沸き立つ怒りに我を忘れそうになったが、不意に大事なこと思い出した。

 右腕に掛かる重みに首を向けると、そこにはあどけない表情を浮かべて寝息を立てている幼馴染み――神楽坂蘭がいた。


 藤亜は、腕の中で微かな寝息を立てながら深い眠りに落ちている少女を見て、安堵の息を漏らした。

 今や彼がこの世界で生きる理由である少女から漂う甘い香りを無言で楽しむ。

 いくさ働きで汚れているとはいえ、少女の美しさは損なわれるものではない。

 今でも不意に見とれてしまう端整な顔立ち。長い睫毛に整った眉毛、彫刻のように整った鼻に締まった顎先。艶やかな黒髪を束ねていた白紐ですでに千切れて無くなり、程よい長さで切り揃えた髪は、少年の腕を覆うように広がっていた。


 十兵衛は湧き上がる愛おしさに流されるままに蘭を抱き寄せた。

 下忍とはいえ忍びの蘭は即座に目覚めて猫のように飛び起きようとするが、華奢でありながら情欲をそそる少女の肢体を十兵衛は右腕一つで逃さない。

 やがて己の状況を理解した少女は恐る恐る周囲を見回して、皆が……見張り役の足軽までもが寝落ちしているのを確認した後、再び少年の腕の中へと身を寄せた。


「十兵衛、一体どうしたのよ――――ぅん゛! あっあん…………んんぁ」


 少年は身を寄せてきた少女の唇を強引に奪うと、そのまま口内に舌をねじ込んだ。

 最初こそ抵抗した蘭だったが舌が何度も絡まり合い、混ぜ合わせた唾液が淫靡な音を奏でる頃には、流し込まれる快楽に没頭するように瞳にを閉じた。

 愛する少女を思う存分味わった十兵衛が唇を離すと、混じり合った唾液は糸を引いてこぼれ落ちる。

 藤亜は頬を赤らめて蕩けた表情を浮かべている蘭を強く抱きしめ、何度も何度も艶やかな黒髪を優しく撫でた。


 藤亜と蘭はお互いの心音を感じながら、ささやかな幸福感と心地よさに浸って無言の時を過ごしたが――――。

 やがて蘭は意を決したように身体を離して、年下で手間の掛かる幼馴染みの瞳を覗き込む。


「何か心配事があるの?」


 その一言に藤亜は思わず視線を横に逸らした。

 それは幼少の頃からの癖で、神楽坂蘭が藤亜十兵衛を問い詰めるときによくしていた仕草と、そこから逃げようとする少年の一連の行動だった。

 無意識の動きに後悔を覚えつつも藤亜は無言を貫いたが、蘭は眉間にしわを寄せて徐々に視線を鋭くしていく。


「十兵衛、何があったの? 教えて」


 先ほどまでの蕩けた表情を消した蘭が、今にも怒ったような、それでいて泣きそうな表情を浮かべて問う。


「敵わないな…………」


 このたちの悪い状況をどう捌くか。

 最強魔獣である龍族以上に脅威である界獣と、人類最強格のオルデガルド帝国の茨十字騎士団。

 この二つが同時に、自分たちに襲い掛かってくる。

 一か八かだが、どうにかするしかない。


「蘭、皆にも説明する。全員、起こすぞ」


 言い訳と誤魔化しの言葉を考えつつ、藤亜は蘭と共に部下を起こし始めた。

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