春の匂い

神谷レイン

前編

 満開の桜が風に揺れてる、晴天の春。

 俺は体勢を崩し、低い踏み台から倒れた。


「うわっ!」


 声を上げて俺はそのまま後ろにドスンと尻餅をつき、同時に手に取ろうとしていた本や写真がバサバサッと床に落ちる。


「くぅ~、いてぇっ」


 強く尻を打った俺は痛みに小さく唸りながら自分の尻を撫でる。尾てい骨は無事だが、二十後半にもなって蒙古斑もうこはんができるのは恥ずかしい。痣になっていないことをただ願う。


 ……あーあー、片付けしているのに散らかしたら意味ないじゃん。


 俺はまだ尻に痛みを感じながら、自分の周りに散らかった本と写真を見渡して頭を掻いた。だがその中で、あるひとつの写真が目につく。俺はそれをひょいっと拾った。


 ……これ、卒業式の。


 その写真には、泣いた後のグズグズの顔で写っている俺がいる。


 ……ふふ、懐かしいな。


 情けない自分の姿に俺は苦笑し、それから少し視線をずらした。泣き顔の俺の隣には、卒業証書が入っている筒を手に、満面の笑顔でカメラに向かってピースをしている先輩が一緒に映っていたからだ。


 ……先輩の卒業式で撮った写真。もう十年前になるのか。


 俺は写真を眺めながら、時の流れの速さに驚く。そして複雑な思いが俺の中に渦巻く。


 ……あの時、違う選択をしていたら俺の人生は変わっていたのだろうか?


 俺は一人、写真を見つめながら笑顔の先輩を見つめ、それからテーブルに置いてある華やかな結婚式の招待状に視線を移した。


 そこには先輩の名前が書かれていた――。




◇◇◇◇


 


 ――十年前。ちょうど桜の時期と重なった春日和の卒業式。


 式が終わった後の校庭では、卒業生たちが集まってがやがやと賑やかしくしていた。それぞれ記念写真を撮ったり、この後の卒パの話をしたり、先生との別れを惜しんだり。

 でも二年生の俺はそれを自分の教室から見ていた。ある人物を探す為に。

 

 ……一体、どこに行ったんだろ。


 俺は三階の教室からキョロキョロと目を彷徨わせて探す。だが一向に見つからない。


 ……トイレにでも行ってるのかな?


 そう思っていると教室のドアが勢いよく、ガラッ! と開いた。だから俺はその音に驚き、振り向く。すると、そこには一人の学生がいた。


「ここにいたのか」


 ニッと笑って言ったのは俺がさっきから目で探していた先輩だった。


「先輩っ!」

「どこ探してもいないから探したぞ? ヒロ」


 先輩はそう言いながら躊躇いもなく二年の教室に入ってきた。そして俺の傍までやってくる。


「ヒロ。俺、今日で卒業なんだけど何か言う事は?」

「えっと……卒業、おめでとうございます?」


 俺がぼそぼそっと小さな声で伝えると、先輩は少し呆れた顔をした。


「ありきたりだな、もっと他にない訳? 先輩がいなくなると寂しいです! とか、先輩がいなくなるなんて考えられません! とかさ。そもそもなんで疑問形なんだよ」

「……先輩がいなくなると寂しいです」


 先輩に言われたので今度は疑問形なしで言ったのに、また呆れた顔をされた。


「あのな、俺が言った事と同じこといってどーすんだよ」

「な、先輩が言えって言ったんじゃないですか!」


 先輩に批判され、俺はつい反論する。でもそんな俺の頭を先輩はくしゃっと撫でた。


「俺はお前の言葉が聞きたいんだよ」


 そう言われて、俺は考える。でも言葉が何も出てこない。

 そしてうじうじと考えている内に先輩は俺の横に立ち、俺がさっきしていたように校庭を見下ろした。


「いないと思ったら、ここから見てたのか」


 先輩は呟くように言い、俺はその横顔を見つめる。何度も見つめてきた、その横顔を。


 しゅっとした顎のライン。きりっとした目元。短い黒髪が爽やかで、弓道着を着て弓を射る姿はいつも凛としていて格好よかった。

 先輩の周りだけが静寂な空気に満ちて、引き締まった口元と的を見る真剣な眼差しに何度……何度心を奪われたことだろう。


 だから本当は、先輩に言いたい事はいくらでもあった。

 もう学校で会えないなんて悲しい。こんな風にもう話せなくなるのが寂しい。卒業した後も会いたかったのに、どうして他県の大学に進学してしまうんですかって。


 でも、ただの後輩である俺がそんなことを言えるわけもない。

 

「先輩、校庭に戻らなくていいんですか? 先生と写真とか」


 俺は俺の気持ちとは別の事を口にしていた。だってこれ以上先輩がここにいると、余計な事を口走ってしまいそうで。


「早く戻った方がいいですよ」


 本当は傍にいたい。でも俺が変な事を言う前に離れたかった。そして俺の言葉に先輩は頷いた。


「ああ、戻るよ。でも、これをお前に渡したくてな。だから探してたんだ」


 先輩はそう言うとおもむろにブレザーのポケットから、小さな白い紙袋を俺に差し出した。


「ほら。お前に」

「なん、ですか?」


 俺は何かわからなくて、差し出された紙袋を両手で受け取る。中身は軽くて、チリンッと音が鳴った。


 ……なんだろう?


「開けていいですか?」


 俺が尋ねると、先輩は「ああ」と笑って頷いた。だから俺はすぐに中を開けてみる。するとそこには弓道の的と矢がセットになった鈴付きのキーホルダーが入っていた。弓道部のキーホルダーだ。


「これっ」

「俺からの餞別。ヒロ、これからも頑張れよ」


 先輩はニッと笑って俺に言った。その眩しいくらいの笑顔に俺は胸が締め付けられる。


 ……なんで、こんなことをするんだ。ただの後輩の俺に。あんたは俺の事、何とも思ってないくせに。


 俺は嬉しいと同時に悲しくなり、ぎゅっとキーホルダーを握って奥歯を噛み締めた。でもそんな俺の気持ちを無視して、校庭から声が飛んでくる。


「おーいっ、津田~っ! そんなとこで何してんだ!? 下りてこい、集合写真、撮るぞーッ!」


 先輩と同じクラスの誰かが叫んだ。教室にいる先輩を校庭から見つけたのだろう、先輩は窓から少しだけ身を乗り出して返事をする。


「ああ、わかった! 今からそっちに行く!」


 先輩は手を振って言い、それから俺を見た。


「じゃあ、ちょっと集合写真を撮りに行ってくるわ」


 先輩はそう俺に言った。俺はキーホルダーを手に頷く。


「はい。……キーホルダー、ありがとうございます」

「どういたしまして。……じゃあ行ってくる。俺達もあとで一緒に写真撮ろうぜ」


 先輩はそれだけを言って教室を出て行こうとし、その後ろ姿を俺はただじっと見つめる。


 ……振り向いて、こっちに振り向いて。立ち止まって。先輩、俺を見てよ。


 そう心が身勝手に叫ぶ。でも俺は何も伝えられない。そして俺の願いも空しく、先輩はドアを開けて教室を静かに出て行ってしまった。


 ……先輩、行っちゃった。


 俺は一人教室に残って、心の奥から這い出てくる苦しさにのたうち回る。


 ……先輩、好き。好きですっ。……そう言えたら、この苦しさもなかったかな? 俺が女の子だったら。


 俺は俯き、目尻に涙を溜める。でも俺は自分の気持ちを言わないと決めていた。だって、もしも気持ちを伝えて先輩に嫌われたら……。そうなる方が怖かったから。


 ……先輩と後輩の関係だから、このキーホルダーを貰えたんだ。もし告白でもしていたら、きっとこのキーホルダーも貰えなかったはずだ。だから言わなくてよかったんだ。


 俺はそう自分を納得させる。けれど、今日で先輩との学校生活が終わってしまうのに、自分の気持ちを伝えなくていいのか? と心がずっと問いかけてくる。


『言わなかったことをこの先ずっと後悔するぞ』


 そう心が囁く、俺を脅すように。


 ……でもきっと伝えても後悔するから。先輩との関係を自ら壊した事に。それなら俺は言わない、たった一言の『好き』の言葉も。言わないんだ。


 それが俺の選択だった。

 でも、やっぱり胸が苦しくて、悲しくて、先輩の優しさが辛くて、俺はいつの間にかぽたぽたと頬を伝う涙を床に零していた。


「うっ……うぅっ、せ、んぱいっ」


 窓の外は陽気な天気で、校庭からは楽しそうな声が聞こえてくるのに、俺はただ一人声もなく泣いて、先輩がくれたキーホルダーを握るしかなかった。


 告白もできずに一人、失恋した苦しさに。





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