「ひそむ」

ゴジラ

「ひそむ」


「ひそむ」


 休日の朝、駅前で彼女と待ち合わせをしていた。

 密集した歩行者の群れを眺めて暇を潰していると、見覚えのある男の存在に気がついた。俺は反射的に「ムライ。」とその男の名前を呼んだ。

 突然、自分の名前が耳に飛び込んできた一匹の男は、短い枝が震えたような動きで身体を止めた。そして人混みから真犯人を捜し当てる警官のような鋭い目つきで周囲を見渡して、ようやく俺を見つけた。「よう」と声をかけると「なあんだ。Kだったのか」という表情だけで返事をした。

「デート?」と俺が聞くと、「いや」とムライは首を横に振った。

「じゃあ買い物?」と聞くと「違う」と言ってから、「歩いているだけ」と付け加えた。要領を得ない返事の裏には、他人に知られたくない秘め事があるのは明白だった。そんな男を呼び止めてしまったことに、幾分申し訳ない気持ちになったが、湧き上がる好奇心が俺の良心の邪魔をして「あれ?ここに住んでたんやっけ?」と探りを入れていた。

「……いや。うん、多分」とムライは曖昧な返事をすると、嘘つきの汗が額を湿らせた。

「そうなんや。知らんかった」と意地悪な好奇心を抑え込んで、彼の嘘に付き合ってやることにした。だが見え透いた嘘に一度でも気を取られてしまうと、次の言葉が簡単には出てこなかった。それでも悪戯な口を押さえ込むように、「呼び止めてごめんな。じゃあまた会社で」と別れを切り出した。しかし、ムライの返事は予想外のものだった。

「Kはなにしてんの?」

 嘘をついても尚、彼は会話を続けたのだ。これ以上の会話は虚偽を塗り重ねるより他にない。なおさら早く切り上げてやるべきだと思った。

「彼女と待ち合わせしてるだけやで。そろそろ来るかも」と、突っぱねるような態度で答えた。

「へえ」とムライは興味なさげに答えると、一間を置いて「ところで、Kはなにを考えてるの?」と聞いた。

 正直、意味がわからなかった。「どういう意味だ?」と考えてみたが一向に答えは出なくて、とりあえず彼の様子を伺ってみることにした。しかしムライは俺を見つめたまま、口を閉ざしているだけだった。その目の色には生力すら微塵も感じられなくて、まるで植物と会話しているような形容し難い気味の悪さがあった。

「Kは、俺が狂っていると思うのかい?」

 ようやく口を開いたかと思うと、また意味のわからないことを言った。この男は一体なにを求めているのか。そのときムライの額から滲み出た汗粒は頬骨を伝って、顎先まで向かおうとしていた。

「狂ってる?どういう意味?」

「意味?だって、Kが疑っているように見えたからさ」と言ったムライは、チノパンのポケットから深緑色のハンカチを取り出して、額の汗を拭った。汗のベタつきから解放されて、いっときの爽快感を強く感じているようだった。またそれ以上に、秘密を暴かれる危機感を楽しんでいるようにも見えた。

「別になにも考えてへんし、ムライを狂っているとは思ってへん」と答えた。

 一刻も早く、彼にはこの場から消えて欲しいと思った。彼を呼び止めた数分前の自分を責めた。もうじき彼女がやって来る。彼女をこんな男と会わせたくなかった。


「本当かな?でも、Kは正しいよ。狂っているんだ。俺は」


 突然の告白だった。その堂々とした口振りは、前々から告白することを決めていたように思えた。

「ねえ。俺ってさ。狂っているだろう?」

 今度は同意を求めるように、ムライは聞き直した。俺は返答に困った挙句、「たぶん」とだけ答えてやった。満足させてやれば、どこかに行くだろうと思っていた。しかしムライは嬉しそうな顔をするだけだった。しかもそれは純粋な喜びから生まれる笑顔とは、明らかに一線を画していた。口角を大げさに釣り上げて、目を見開いただけ。そんな不気味な笑顔だった。喜びと不安。相反する感情が混ざり合うと、人はこんなにも不器用な顔つきになることを俺は初めて知った。

「俺はね。もっと狂っている人間を知っているんだ。あの女……そうだ。君も知っていると思う。ええっと……西村ホナミ。営業事務の子だよ」と興奮した様子で、声色を高くしてムライは言った。

「西村さん?なんで?もう良いよ」

 呆れるように彼の発言を突っぱねた。どうして西村さんなのか気になったが、これ以上の会話は避けたかった。

「もうじき彼女が来るねん。じゃあ、また会社で」と言って足を運ぼうとしたときだった。

「こっちも来たよ」とムライは言った。

 彼の視線は人混みを面で捉えて、そして一人の人間に焦点を当てた。俺もその点となる人間を見つけてしまった。ムライの隣にやって来た女性は、間違いなく西村ホナミだった。彼女は俺の顔を見るなり、一度だけ驚いた顔を見せた。それから恥ずかしそうに俯くと、そのままの流れで頭を下げて、挨拶をした。

「どうも。Kさんも一緒だったんですね」と西村ホナミは言った。

「どうだい?Kには彼女が狂っているように見えないのかい?」

 自慢のおもちゃを見せびらかすようにムライは言った。あまりにも失礼な態度に俺は怒ってやろうと思った。

「お前は、さっきからなにを言ってるねん。彼女に失礼やろうが」

 語気を強めた。これが正しい行いで、真っ当な意見だと信じていた。そして、ムライは謝るだろう。そのはずだった。見当違いだったのは俺の方だとは思ってもいなかった。

「失礼でもないし、悪いことでもないさ。みんな狂ってるんだから。Kもそうだろう?」

「だから、お前はさっきからなにを言ってんねん。俺も、西村さんも違う。今日のお前、なんかおかしいぞ」

「いやいや。どうして、そんなことがKにわかるんだよ。決めつけるのは良くないよ。狂っているのは君も同じだろう?」

 ムライの表情は、うぶな少年のように純粋で迷いがなかった。そんな俺に与えられた選択肢は、困るだけだった。もしこれ以上、困ることができなくなると、俺はこいつを殴ってしまうかもしれないと思った。すると西村ホナミがようやく口を開いた。


「彼の言う通りです。私、おかしいんです。きっと狂っています」と俯いて、地面に語りかけるように言った。

 うん、うんと頷いたムライはこう続けて言った。

「君のなにがおかしいのか、Kにも話してごらん?」

 その口ぶりは優しくて、先ほど見せた純粋な少年のような一面はとうの昔に失っていて、まさに我が子を諭す父親のようだった。熱心に考え込む西村ホナミの姿は、俺ではなくてムライの全てを肯定しているように見えた。また躊躇する素ぶりを見せながらも、答えることに否定的ではない彼女の態度が不快で仕方がなかった。適切な間合いを探しているような、タイミングが合えば全てを告白する気があるようだった。

「ええっと……」と戸惑いながらも、西村ホナミが助走への一歩を踏み出そうとしたときだった。

「Kくん?」

 俺の名前を呼ぶ声が割り込んだ。彼女のNだった。最悪だ。彼女をこの二人に会わすことだけは阻止したいと思っていた。

「初めまして」とNは、狂人達に頭を下げた。観念した俺は、何事もなかったように「会社の同期のムライと、西村さん。さっき、たまたま会ったんよ」と彼女に二人を紹介した。

「Kがお世話になっております。彼女のNです」と改めて頭を下げた。すると驚くことに、ムライも西村ホナミも普段会社で見せるような社交的な態度で、Nと接し始めた。さっきまでの狂った会話が嘘のように、俺の仕事ぶりや職場での人間関係を、冗談を混じえて話し始めて、挙げ句の果てには俺たちの馴れ初めまでも自然な流れで聞き始めた。Nも二人との会話を楽しんでいるようで、それはまるで「普通の会話」だった。だから余計に、さっきまでの異様なやり取りが、吹き出物のように痛く目立っていた。あれは二人の悪い冗談だったのかもしれない。なんてことを考えてしまうほど俺だけが取り残されたように、その場ではなにも言えずに立ちすくんでいた。時折、笑いかける三人に微笑みを返すのが精一杯だった。すると、Nがこんなことを言った。

「せっかくなんで、立ち話もあれですし、お茶でもいかがですか?」

「ええっと」と西村ホナミは、ムライを見た。

「あっ。ごめんなさい。デートのお邪魔でしたよね?」とNが言った。

「いえいえ。ところで、Nさん。俺たちって、付き合っているように見えますか?」とムライは聞いた。

「ええ。お付き合いされていると……違うんですか?」

「ハハッ。そうですか。おっしゃる通りで、俺たち付き合っているんです。お似合いですから。本当に、似たもの同士なので。ねえ。Kもそう思うだろう?」

 ムライは声を上げて笑った。西村ホナミもつられるように笑った。このときになって、ようやく俺は騙されていることに気がついた。そして、この場から早く逃げなければならないと知った。

「美味しいモンブランケーキのお店を知っているんです。良ければ行きませんか?」と一通り笑い終えた西村ホナミは嬉しそうに言った。彼女は横目で俺を見ていた。

「いや。いい。やめとこう」と俺は止めに入った。

 すると、Nは「どうして?」と真っ当な疑問を投げかけた。素直に、言ってやりたいと思った。この二人は嘘つきで、狂っているのだと。全てが偽りだと教えてやりたい気持ちでいっぱいだった。しかし、さっきまでの会話を、うまく説明する自信など俺にはなかった。

「せっかくだから、行こうよ。Kくん」

「あかん。俺たち行くところあるから、じゃあ」とNの手を取った。

「あっ」と声を漏らしたNは、微弱な抵抗を見せたが、俺の力に負けてその場から離れた。どうしたの?と聞く彼女にはなにも答えられなかった。俺は何度も後ろを振り返って、ムライと西村ホナミがついて来ていないか確認した。二人は歩き去る俺たちを見送っていた。その顔が卑しくて、汚くて、気持ち悪くて仕方がなかった。



 あれから数日後、二人は会社を辞めた。

 行く先など知らないし、知りたくもない。時折、二人のことを思い出すことがある。人間が人間でなくなる瞬間を目撃したあの日を。何度も忘れようとしたが、それは無駄だった。どれだけ時を重ねても、嫌な記憶というのは人間の脳裏にそのままの色や形で残ってしまう場合がある。だから俺は観念して、受け入れるべきだと思った。そして時折、思い返してアレは異質だったと、自分に言い聞きかせた。目障りな記憶を机に広げて、自分が正常であることを確かめるために、あの日を思い返す。そうでなければ、知らぬ間にアイツらと同じような人間になっていても、気がつかないのでは?という不安があった。だから今日も、俺は記憶の風呂敷を広げることにした。

「狂っているのは君も同じだろう?」

 ムライの声が耳奥で鳴った気がした。

(了

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