第211話 メッセージ

 まりちゃんと由香里さんに別れの挨拶をして、俺と愛花は彩菜を迎えに3年1組に向かった。

入学して以来、初めて足を踏み入れた教室棟の4階は、一見ほかの階と変わらないように思えるが、実は一つだけ決定的な違いがあった。

教室も廊下も、全ての窓に金属製の格子が嵌められているのだ。

これは言うまでもなく、転落防止、いや、飛び降り防止のために設置されたものだった。


「これって、校舎を建てた時にはなかったって、学級委員会の顧問から聞いたよ?」

「え、それじゃあ…」

「うん、そう言うことみたい。」


 設置に至った経緯はこの季節には合わない話なので割愛させていただくが、つまりはそう言うことらしい。


 背中に冷たいものが走ったところで、気を取り直して彩菜の教室に顔を出すと、彼女は後方の席で桜庭さん、あかねさんと雑談に興じていた。

今年度の彩菜の席は、あの位置になったようだ。


「失礼します。あや、迎えに来たけど、もう帰れるのか?」

「あ、ゆう、愛花ちゃん、私はいつでも大丈夫だよ。」

「じゃあ、わたしも帰ろうかな。森本さんはどうするの?」

「そうね、残っててもすることないし、わたしも帰るわ。」


 上級生の教室ではあるものの最早勝手知ったる何とやら、俺が彩菜に声をかけてズカズカと入って行っても咎める先輩は誰もいない。

俺は彩菜の傍で足を止めて、鞄から取り出したラッピング袋をあかねさんに差し出した。


「あかねさん、今朝は有難うございました。お礼と言っては何ですけど、これ、食べてください。」

「そんな、よろしいのですよ? わたくしは悠樹さまのお役に立てれば、それで満足いたしますのに。」


 あかねさんが眉を八の字にして受け取りを固辞していると、彩菜がスッとラッピング袋に手を伸ばす。


「あかねが食べないんなら、私が食べようかな。ゆうが焼いたクッキー、美味しいのに。」

「悠樹さまお手製のクッキーですって?! いただきます! ぜひいただきます!」


 彩菜の指があと1mmで触れるというまさにその時、あかねさんは大慌てで俺の手から袋を引ったくった。

その早技たるや、誰の目にも残像すら残さなかったほどだ。


 ところでこのクッキー、本来は昼休みにまりちゃんたちとデザートがわりに摘もうと持って来たものなのだが、今朝、あかねさんにお世話になったので食べてもらおうと思い、出さずに取っておいたのだ。


「バタークッキーとチョコクッキーです。少ししかありませんけど。」

「ああ、嬉しゅうございます。悠樹さまからの賜り物、一生大切にさせていただきますわ。」

「いや、お菓子なんですから、食べてくださいよ。」


 あかねさんは放っておくと本当に家宝にでもしそうな勢いなので、あとで感想を聞かせてほしいと付け加えつつ食べてくれるよう促した。


 あかねさんがラッピング袋を丁寧に鞄に仕舞ったところで、今度は桜庭さんがサブバッグから小物を取り出してこちらに差し出した。

それは今朝、俺が紗代莉さんに渡した保冷温ポットだった。


「はいこれ、紗代ちゃんが王子さまに渡しといてって。」


 礼を言ってポットを受け取ると脇に付箋紙が貼ってあり、綺麗な文字で『美味しかった』と一言書き添えてあった。


「紗代ちゃんからメッセージが行ってると思うけど、次からは朝わたしが受け取って、紗代ちゃんに届けるようにするから。」

「すみません、助かります。」

「良いの良いの、どうせ毎朝職員室にお弁当持って行くし、ついでだからね。」


 LHR中に、紗代莉さんからメッセージをもらっていた。

彼女の担任クラスはまだ動き出していないので、空いた時間が出来たのだろう。

メッセージは、たった今、桜庭さんから聞いたことと、ココアを口にした感想、そして彼女の好みの味についてが簡潔に纏められていて、紗代莉さんからと言うよりも前田から受け取った心地になり思わず苦笑いしてしまった。

 それでも、俺にきちんと伝わるようにと丁寧に文字を入力している姿を思い浮かべるだけで胸が熱くなるのだから、恋というのは本当に不思議なものだ。


「王子さまが、卒業するまで付き合うのを待つって言った時は驚いたけど、ちゃんと育むものは育むあたり、流石だと思うよ。」

「悠樹はいつも、愛情表現には色々なやり方があると言ってますから、これもその一つってことですね。」


 たとえ相思相愛であっても、コミュニケーションを怠れば、すれ違いが生じてしまうのは当たり前だ。

想いを伝え続けることが出来なければ、相手との物理的な距離に関係なく、その恋は終焉を迎えてしまうだろう。

直接的に触れ合うことが出来なくとも、心を通わせる方法はいくらでもある。

大昔の流行歌はやりうたに『会えない時間が愛育てる』という歌詞があったと思うが、ただ放っておいて育つことなど決してありはしないのだ。


「俺と紗代莉さんは会えないわけじゃありませんし、寧ろこれから会う機会が増えるかも知れませんから。」

「それ、紗代ちゃんも言ってたけど、どういうことなの?」


 今朝、世界史教師の成沢から紗代莉さん経由で連絡をもらったが、俺のことを苦手としているのは多分成沢だけではない筈だ。

それが証拠に俺が職員室を訪れると、ほかにも数人、露骨に顔を逸らす教師がいるのだ。

俺が誤りを指摘したが故に、彼らのなけなしのプライドを傷つけてしまったのだろうが、そんなことでこの先、教師が務まるのだろうか。


 まあつまりは、俺と紗代莉さんは、成沢の二番煎じに甘んじる情けない輩が出て来るだろうと踏んでいると言うことなのだ。


「なるほど、前田先生は、悠樹担当教師の地位を確立するつもりなんですね。」

「しかも、その種を、ゆうがあらかじめ蒔いておいたってことだよね。」

「ってことは、王子さまは、最初から紗代ちゃんを狙ってたってこと?」

「流石は悠樹さまです、全てご計画通りということなのですね。わたくし、感服いたしました。」


「いや、俺、そんな先のことを見通す能力ないから。単なる偶然だから。」


 このあと、今月から産休に入った女性教師に替わって紗代莉さんが図書委員会の顧問になったのも、俺の策略ではないかと疑いがかかった。


「ゆう、まさかとは思うけど、その先生にしてないよね?」


 それを言うならだと思うのだが…。

いずれにしても、この件についてそのような事実は決してないことだけは、声を大にして言っておこう。


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