第163話 初東風

「こちらの部屋なんですけどね、どうぞ入ってみて。」


 美菜さんがドアを開けて部屋の中に入るように促すと、アデラインは『失礼します』と軽く会釈をしてスッと足を踏み入れる。

けれどその途端、彼女は戸惑いの表情を見せて、美菜さんを振り返った。


「あの、こちらのお部屋は、どなたかがお使いになっているのではありませんか?」


 アデラインがそう思うのも無理はない。

美菜さんが案内したのは、まるで今でも誰かが住んでいるように整理されている、かつて結菜が過ごしていた部屋だった。


「ここはね、長女が使っていた部屋なの、でも、もう戻ることはないから、良かったらどうかなって。他の部屋を空けることも出来るけど、ここなら家具や寝具もあるし、今日からでも暮らせるわよ?」


美菜さんはアデラインを見つめながら、穏やかな表情で静かに言葉を紡いだ。




 昨日、美菜さんが我が家を訪れて、結菜が使っていた部屋を提供したいと言ってきた。

結菜が亡くなってから2年8ヶ月、まるでそこに彼女が居るかのように綺麗に保たれていた思い出の詰まった場所を、アデラインのために空けると言うのだ。


『良い区切りだと思うの。この間、あなたがあの部屋に来てくれて、一緒に結菜の話をした時に、ようやくあの子は、あなたの下に嫁げたんだって思えたのよ。だから、あの部屋は、もうなくても良いかなってね。だって、あなたなら、あの子のこと、幸せにしてくれるでしょ?』


 美菜さんがそれで良いと言うのなら、俺には異存はなかったし、結菜の妹たちも同じ考えだった。

結菜の思い出は、箱ではなく俺たちの心の中に生きていて、いつでも取り出すことが出来る。

俺たちが忘れることなく、胸に仕舞っておけば良いだけのことだ。




 美菜さんの面持ちと言葉に感じるものがあったのだろう、アデラインは翠の瞳を伏せ気味にして、申し訳なさそうに呟いた。


「そのような大事なお部屋を、わたしが使わせていただくことは…」

「大事な部屋だから、誰かに使ってもらえればと思ったの。このまま、この部屋の時間を止めておくのはやめようと思ってね。」

「大事な、部屋だから…」

「最近、この部屋だけ過去に置いてきてもしょうがないと思えることがあったの。ね? 悠樹くん。」


 この部屋の状態とは裏腹に、結菜の時は止まってなどいなかった。

俺たちと同じ時間ときの流れの中で子を育み、変わりゆく現世うつしよを俺たちと共に感じていた。

あの場所で、たった三人だけで…。


「アディー。」

「はい…」


 俺が声をかけるとアデラインは俯けていた視線をこちらに向けるけれど、白磁のような美しい顔には憂いの色が浮かんでいる。


「この部屋に暮らしていたのは、とても優しくて面倒見の良い人だったんだ。だから、もしも彼女にきみのことを話したら、この部屋を遠慮せずに使ってほしいと言ってくれると思う。最後にはきみが決めることだから、無理にとは言わないけど、この家の料理人は、俺なんかより余程腕が良いから、きっと毎日、美味いご飯がいただけると思うしね。この部屋は、お薦めだよ?」


 俺が話している間、アデラインは唇を真一文字に結んで、こちらに視線を注いでいた。

やがて彼女はふっと表情を緩めると、笑みを浮かべて自らの意思を俺と美菜さんに教えてくれる。


「…お隣に、悠樹さんも暮らしていらっしゃいますし、このお部屋は、私の希望にピッタリです。」


 俺の隣でアデラインを見つめていた美菜さんは、目を細めて満足そうに頷いた。




「悠樹、お嬢さん方も、今日はどうもありがとう。」

「本当に、ありがとうございました。皆さんとお会い出来て良かったわ。」

「こちらこそ、お会い出来て良かったと思っています。祖父をこれからもお願いします。」


 顔合わせのひと時を終えて、皆で祖父とグリーン母娘の見送りをする。

祖父に寄り添って微笑むキャロラインさんを見ているうちに、この人になら彼を任せても大丈夫だろうなどと、まるで保護者のような気持ちになっていた。


 俺の表情を読み取ったのだろう、隣に立つ彩菜が小さくクスッと笑う。


「アデラインさん、2ヶ月後を楽しみにしてるから、必ず合格してね。」

「ええ、必ず合格しますので、2ヶ月後にまたお会いしましょう。」

「あたしは、試験会場で会えるから、その時を楽しみにしてますね。」

「ええ、お互いに頑張りましょうね。」

「私と悠樹も、試験会場のお手伝いに行きますので、お会い出来るかも知れませんね。」

「それじゃあ、俺と愛花は、受付を担当しようか。それなら、絶対に会えるよね。」

「ふふ、取りまとめ役の権限をフル活用するつもりですね? 悪い人です♪」

「ふふふ、お二人にお会い出来るのは嬉しいですけど、他の受験生が、お二人の仲睦まじさに当てられてしまって大変でしょうね。」


 皆で思い思いの挨拶を交わして、再会を誓い合う。

アデラインは他の物件など見ることもなく、中学卒業と共に、清澄家にお世話になることが決まった。

下宿代などの金銭面の話は、後程祖父と清澄家との間で取り決めることにしたようだ。

アデラインの学園生活のことだけでなく、美菜さんにとっても、日々の暮らしに潤いが得られることを願ってやまない。


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