第44話 君がいない日

 金曜日の朝、梅雨明けが近いらしく降るのか降らないのかはっきりしない空模様の下、私は学園の敷地に足を踏み入れた。

 昇降口で上履きに履き替えて教室に向かう、早い時刻なので廊下で見かける生徒はまばらだ。


 クラスメイトがまだ数人しか登校していない教室に入る。

いつもと同じ見慣れた場所の筈なのに、なぜか軽い違和感を覚えた。


「おはようございます。」


 皆に挨拶をして自分の席に鞄を下ろすと、既に登校していた南雲さんが話しかけて来た。


「おはよう、神崎さん。御善くんが来てないんだけど、何か聞いてない?」

「おはようございます、南雲さん。悠樹くん、まだなんですか? 珍しいですね。」

「うん、いっつもわたしの次くらいに来るんだけど、何か居る人が居ないと気になっちゃうよね。」


 先ほど私が感じた違和感の正体はこれだった。

いつもは既に来ている悠樹くんが居ないのだ。

この時刻に彼を見ないのは、入学以来初めてのことだった。

今日は遅れているのだろうか、それとも…。


「何かあったんでしょうか…」

「そんな心配そうな顔しないでよ、誰だってお休みくらいするでしょ。」


 心の中で呟いたつもりが声に出ていたらしい。

南雲さんが苦笑いしながら言葉を返してくれた。

二人で悠樹くんの話をしていると、鷹宮さんが登校してきた。


「おっはよ、あ、やっぱり御善くん、いないんだ。」

「おはよう、まりちゃん。やっぱりってなに?」

「さっき昇降口で姫君見かけたんだけど、一人だったからさー」

「ああ、じゃあ今日は御善くん来ないの確定かなぁ。」

「なーんか姫君、元気なかったし、御善くん、風邪で寝込んでるとか?」

「でも、それなら清澄先輩も休んで看病しそうじゃない?」

「言えてる、でもほら、御善くんち、親もいるだろうしさ。」


 悠樹くんの家に家族はいない。

病気だったら間違いなく彩菜さんと涼菜さんが学校を休んで看病するだろう。

けれど、彩菜さんが登校しているのなら事情は違う筈だ。

時計を見ると、まだSHRまでは時間がある。


「私、ちょっと聞いてきます。」

「え、神崎さん?」


 私は自分の教室を出て、2年1組を目指して歩き出した。

悠樹くんのことも気になるが、鷹宮さんから聞いた彩菜さんの様子がさらに気になったからだ。


 2年1組に着いて、出入り口から教室内を覗いてみると、彩菜さんが座っているのが見える。


 私は息を飲んだ。


 彩菜さんは物憂げに焦点の合わない目で、ただ中空を見つめていた。

私は今まであんな表情の彼女を見たことがなかった。

彩菜さんがあんな顔をする理由は一つしか考えられない。

きっと悠樹くんに何かあったのだ。


 私は出入り口近くに座っている先輩女子に声をかけた。


「あの、すみません。」

「あ、はーい、誰か呼び出し?」

「はい、清澄先輩を呼んでいただけますか?」

「あー、清澄さんかー」


彼女は彩菜さんの方に視線を向けて少し躊躇っている。

明らかに声を掛けづらい様子だ。


「あの、無理でしたら結構ですよ?」

「あはは、大丈夫なんだけどね、あんな清澄さん、随分久しぶりに見たんでちょっと声掛けづらかっただけ。」

「久しぶり、ですか?」

「うん、あの人、去年はずーっとあんな感じだったの、最近は彼氏のおかげで別人みたいに明るくなってたんだけどねー、ってごめんごめん、今呼んでくるね。」


 知らなかった。

私はいつも、悠樹くんと一緒にいて笑っている彩菜さんしか見たことがない。

去年1年間、彼女はいったいどんな気持ちでこの教室で過ごしていたのだろうか。


「愛花ちゃん? おはよう、何か用事?」


 彩菜さんが教室から出て来てくれた。

彼女は先ほどと違い柔和な表情を見せているが、やはりいつもと少し様子が違う。


「おはようございます、朝からすみません。今日、悠樹くんが登校して来ないので、ちょっと気になって…」

「うん、心配してくれたんだよね、ゆうは急な用事があって今日はお休みなの、病気とかじゃないから大丈夫だよ?」

「分かりました、それなら来週は顔を見られそうですね、ありがとうございました。」

「うん、愛花ちゃん、ありがとう、またね。」

「はい、ではまた。」


 彩菜さんが教室に戻るのを見届けて、私は踵を返した。

自分の教室に向かって廊下を歩いていると、彼女に聞けなかった言葉が頭の中に浮かんでくる。



『悠樹くんが大丈夫なら、なぜ貴女はそんな顔をしているんですか?』



 私は悠樹くんや彩菜さんたちのことをほんの僅かしか知らない。

私はそれが無性に悔しかった。

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