1-2

 懸念していたような事は起こることなく、誰に見つかる事もなく無事に屋上へと辿り着く事が出来た。


 正規の出入口である棟屋に設置された時代遅れの白熱灯が淡く周辺を照らし出している。


 屋上には物干しがいくつかと、その横に三人がけのベンチが二つ、そして照明の切れた自販機が二台。

 昼間はここで患者、面会者が談笑したりしているのだろうが、今は静寂だけが場を支配している。

 まるで俺だけを残して世界から誰もいなくなってしまったのではないかと錯覚するほどの静寂だ。


 ……ここを選んだのは間違いなかったと安堵する。俺の最後にふさわしい最高の環境だ。



 念のため辺りを注意深く探ってみるも、人の気配は感じない。

 それもそうか。こんな時間に用もなく、こんな所にやってくる奴なんているはずないもんな。

 こんな真夜中に病院の屋上に用があるやつなんて俺くらいなもんだ、と自嘲しつつ柵に手を掛ける。

 柵の高さは肩の高さ程。多少、手こずりはしたが柵の外側へと降り立つ事になんなく成功した。


 これが、きっと最後に見る光景になるのだと、景色を見渡そうとしてすぐにやめた。街灯も少ない田舎町の山沿いだ。当然明かりなんてない。なにも見えるはずがなかった。


 そうなれば、することは一つだけ……


 持ってきたサンダルを揃えて柵の向こう側へと置く。……遺書も自室の机の上に置いてきた。

 ________もう思い残す事は何もない。


 屋上のヘリに立ち地上を覗き込む。

 そこは真っ暗闇。そのまま吸い込まれてしまいそうな程の漆黒。

 地獄に落ちる事を、奈落の底へ落ちると表現すると聞いたことがあったが、まるで自ら奈落の底、地獄へと飛び込もうとしている事に気が付いて歪んだ笑みが溢れた。


「親不幸もんだもんな……当然だ……」


 これ以上考え事をしていたら確実に決心が鈍る________だから、覚悟を決めて虚空へと一歩を________




「ちょちょちょちょ、ちょっと、きききき君!そこで何をしているの!?」


 誰もいないはずの深夜の屋上。不意に声を掛けられた事で俺は動きを止めて振り返る。




「まっ、まさか……自殺?」


 黒髪の少女がこちらを見据えていた。

 目があった直後、少女はこちらに突進の如く走り寄ると柵の隙間から手を伸ばし、俺のベルトを両手でがっちりと掴んだ。


「ダ、ダメだよ!生きられる人が自分から死のうとするなんて!」



 それと同時に俺の横を何かが通り過ぎ、二、三秒すると破裂音のような音が辺りに響き渡る。

 おそらく通りすぎた何かが落下して、地面と衝突した音だった。

 そう気が付いたとたんに、自分がしようとしていた事がとても恐ろしい事に感じて膝が震えだす。


 何が落ちたのかはわからない。でも落ちれば破裂音を響かせた物と同じように、壊れてしまう。

 そうなれば二度と元には戻れない。そんな簡単な事に気が付いてしまった俺は、完全に怖じ気づいていた。



 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、少女はあどけなさの残る笑顔をこちらに向けて続ける。


「ね?危ないからこっちに来なよ。何か嫌な事あったの?私で良ければ聞くよ?」




「俺の命だ。どうしようと俺の勝手だろ。離してくれ」


 反射的に出た拒絶の言葉だったが、もはや自らの足すらも俺の言うことを聞くことはない。ただの強がりだった。


 俺の拒絶を受けても少女は笑顔を崩さない。


「……勝手じゃないよ。君には、君の事を必要としている人がきっといる。それに応えられる君には生きる義務がある。だから……」


 どこか儚げで触れれば壊れてしまいそうな笑顔……


「ねっ?だからこっちにおいでよ」


 腰を圧迫するベルトがキツく閉まり、ベルトを握る少女の手にさらに力が込められた事が伺えた。


 最早、自殺をする覚悟もなくなってしまっているし、目の前の彼女がを許してくれる事もないだろう。


「わかった。手、離してくれ」



「ダメ。離したら飛び降りるつもりでしょ?」



「そんな事はしない。ほら見てくれ」


 俺は自分の膝を指差す。

 ズボンの上からでも見て取れる震えを見てか、納得した彼女は手を離すとその場にへたりこんだ。


「はあ、良かった。本当に良かったよ……」


 俺はそれを見て、ただ立ち尽くしていた。


「どうしたの?早くこっちに戻っておいでよ」

 動かない俺を見て、警戒心を再度強めたのか、もう一度こちらに手を伸ばそうとする素振りを見せる。


「いや、違うんだ。膝に力が入らなくて柵を昇れそうもないんだ」

 言って、俺もヘリと柵の隙間にへたりこむようにして座る。



「そっか。……じゃあ、落ち着くまでお話しよ?」


 少女の問いに俺は声を出さずに頷きだけを返した。


 その後は、少女が絶え間なく他愛もない話をしてくれた。きっと気を使ってくれたのだろう。


 彼女は星に詳しいようで、何がどの星座なのだとか、詳しく教えてくれた。

 だけれど、彼女の言葉は耳朶を素通りするばかりで頭には全く入って来なかった。

 自分の本質に気が付いてしまった俺は、それどころではなかったんだ。

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