執筆に集中したかった話

宿木 柊花

第1話

 真夜中。


 執筆の時間。


 昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、全ての家事が終わったこの一時ひとときだけが私の時間。

「今日こそは進める」

 つい呟いてしまい、そっと家の中の気配を探る。物音なし。

 大丈夫だったようだ。小さく息を吐く。

 こんな呟きすら肝を冷やす。それは家族が起きてしまえば、その瞬間に私の時間は終わりを迎えてしまうからだった。


 そんなことは絶対に嫌だ!


 静寂と緊張感の中で集中力は何倍にも増幅される気がする。真夜中ハイ。

 そっとタブレットをテーブルに置く。その下には秘密兵器の耐震マット、これは振動や音を吸収してくれるらしい。

 準備はできた。

「(せめて500は進めたい)」

 昼間のうちに完成させたプロットを打ち込む。詰めが甘い。打ち込んで読み返すことにより浮き彫りになったが進めるしかない。

 締め切りが近いから優先させるべきは完結、それのみ。


「ぷ~~~~~~ん」

 これは!

 私は立ち上がる。筆があまり進んでなかろうと、戦うべき相手が現れたのだから。

 これは暑い季節によく襲撃してくるアイツの足音。

 今年はまだ4月。

「(ずいぶんとお早いこと)」

 ここで逃したら愛する家族の柔肌が危険に晒されてしまう。引くわけにはいかない。

「ぷ~ん」

 夜はアイツにがある。

 その上、今の今までタブレットを凝視していた目ではピンボケしてしまい見ることも危うい。

 スマホともいうがそれは認めたくないお年頃である。

「プーンッ!」

 鋭い。狙ってきている。

「(絶対に負けない)」

 ハエ叩きを手にそっと立ち上がる。


 これから負けられない戦いが始まる。


 目薬を入れて視界をクリアにし、ピントを合わせやすくする。

 アイツは手練れだ。隙を見せたら終わる。

「ぷ~~~~~~ん」

 見つけた。

 壁に止まった。止まった場所が悪く角過ぎてハエ叩きでは叩けない。

「ぷ~~~~~~ん」

 おちょくるように私の周りを飛んでいる。

 しかし、私の目はアイツを捕らえた。

 アイツは口を鋭利に整え、刺しに来る。

 気の抜けた姿勢は古武術を彷彿とさせる。普段は力を抜いておき、いざという時に最大の力を発揮する。

 右から来た攻撃を避け、ハエ叩きを振り下ろす。アイツは余裕たっぷりにふわりと避けると、またすぐに向かってくる。

 狙いは眼球か。

 生物の本能なのか一直線に向かってくる。右手にハエ叩き、左手は手刀。

 今度こそ捕らえる。瞬間、

「(……消えた?)」

 落とせたかと床を見るがいない。壁にも天井にも気配がない。

「一体どこに……」

 ポリポリと鼻を掻く。

 目の前に、いた。

 指に止まっていた。深くその鋭利な口を差し込み、私の血を吸っている。

 そういえばコイツ等は出産のために血を吸うと聞いたことがある。

 今、叩けば動きが鈍く仕留めやすい。

 けれどもし、コイツにも愛する家族がいるとすれば……。

 ためらいが生まれる。

「(朝になったら出ていってください)」

 そう話しかけ、そのままにしようと思う。


「……ママ?」

 小さな小さな我が子が起きてしまった。

 我が子は虫が大の苦手。存在を感じるだけで泣いてしまう。


「え」

 静かに戦ったはず。音は出していない。音がしたとすればハエ叩きの風切り音だけ。

 あまりの驚きで咄嗟に指を隠す。

 プチッと小さな音がした。

 手が血で汚れる。

 心の中で成仏を願う。


 静かに手を洗いながら我が子に聞く。

「どうしたの? トイレ? 怖い夢見た?」

 我が子は頭を左右に降った。サラサラの髪がCMのように揺れる。

 我が子は天使だと思う。

「いっちょ《一緒》寝るぅ」

 ……かわいい。


 こうして私の時間は終わり告げる。

 今日の進捗、58文字。


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執筆に集中したかった話 宿木 柊花 @ol4Sl4

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