無題
詠三日 海座
難しい話
詰まる。詰まる。息が詰まる。喉が腫れたように苦しい。寝ても、覚めても、ずっと喉の奥に何かが潜んでいるような不快感に襲われていた。
ある夜、わたしは耐えきれずその場で嘔吐いた。喉ににゅるっとした触感が通ってきて、まずい、と手を塞ぐ余裕もなかった。ぼた、と足元の畳の床に嘔吐したのは、どろどろの嘔吐物でも、胃液でもなかった。黒い、ボールのようなものが、わたしの歯の間を滑って床を跳ねた。
黒いボールは唾液まみれで湿った不快な音を立てながら、独りでに畳の床を跳ね続けていた。スーパーボールみたいに留まることなく球体は跳ね、キュッキュッと動物のような音を発していた。
「なに、これ……」
わたしの体から出てきたの?
体がぞくっと肩を震わせ、頭のてっぺんから足のつま先まで悪寒が巡った。腕に鳥肌が立つのが感じられた。今度は本当に吐き気を催し、うっとわたしは唸ってトイレへ駆け込んだ。
恐る恐る部屋を覗き、ぽん、ぽん、と意志を持ったように跳ねて回る謎の球体を観察した。目もなく、口や鼻もない、ただ黒く、そして少し柔らかそうで、まるでおもちゃのボールみたいだった。黒いボールはキュッと音を発してあちらこちらを転がり、跳ね回るのだった。
それからもわたしは、得ないの知れない黒いボールを何度も口から嘔吐した。どれもキュッキュッと声のような音を出して、落ち着きなく跳ねる。
「喉が詰まるような感覚は不安やストレスからくるものだよ」
前にお医者さんが言っていた。黒いボールは4体にまで増えていた。互いに何か伝え合うように動きをとめたり、ぶつかり合ったり、本当に生きているみたいだった。
「あんたたち……うるさい」
わたしはテーブルに肘をついて、部屋で自由に動き回る彼らを睨んだ。
「キュッ、キュッ」
「もう……ひとりにしてよ……」
突然訪れた奇妙で不可解な生活に、わたしは少し苛立ちを覚え、ため息をついた。ふと、肘を置いたテーブルを見やると、お医者さんから処方してもらった抗うつ薬と、氷の小さくなったハイボールのグラスが汗をかいて居ずまっていた。
アルコールと飲んでしまうと副作用がきつくなってしまうんだっけ。
途端にとろんとした眠気が瞼を刺激した。わたしは敷いたままの布団に無造作に潜り込んで、睡魔に身を任せ、いつまでも不気味に飛び跳ねる黒い球体を眺めて、重い瞼をゆっくりと瞬かせていた。
暗闇の中で、不意に暖色の明かりが頭上から差した。目の前には小さなテーブルが置かれ、向かいに母が座っていた。
「どうして食べないの?」
母がわたしを睨んだ。
「ママのご飯が美味しくないの?」
「違う、食べられないの」
「なんで食べられないの? ご飯、不味いの?」
母の刺すような冷たい表情に、わたしは押し黙ってしまった。
違う。お腹が空かない。口にいれられないの。味が、しないの。
母はわたしを睨んだま遠のき、明かりの届かないどこか暗闇へと消えてしまった。母の姿がずぶずぶと闇に埋まった瞬間、頭上の明かりも消え、わたしは何も見えない常闇の中に閉ざされた。
気がつくとわたしは外に立っていた。知らない住宅街の裏手、砂利がばらまかれた空き地だった。目の前に男が立っていた。目を見開いた。男は、彼は、わたしの恋人だった。彼は右手にナイフを持って突き出し、まっしぐらにこちらに駆けてきた。わたしは動揺で得も言えず、とっさにナイフを持つ腕を掴んで夢中になって抑えた。へっぴり腰で覚束無いまま、その腕を力任せに押しやった。心臓がばくばくと胸を叩く。彼は砂利に足をとられ、滑ってその場に横転した。彼は何も声を発さなかった。わたしは彼に馬乗りになり、ナイフを持つ手を上から重ねるように掴み、自分の首元へ押し付けた。
「ほら、引いてみなよ!力いっぱい腕を引きなよ!」
必死になりながらも思わず笑いが込み上げるような、凄まじい高揚感だった。
これで死ねる。こいつが首を切って殺してくれる。どうせ死んだように生きてるんだ。誰も助けになど来ない。ならいっそ。
体中の脈が強く波打ち、胸の中心で跳ねるものはまるで太鼓の響きのようだった。
さぁ、死ぬ。今に死ぬ。
ばくばくばくばくばくばくばくばくばくばく
そこでわたしは目を覚まし、弾かれたように身を起こした。夢だったのだ。……夢だった。
「……」
息を切らして喘いでいた。今も心臓はどくどくと痛いほど胸を打つ。
「なんで」
わたしは汗を握った拳を振り上げ、何度も畳を殴った。堪えきれなくなって。玄関へ駆け出し、いい加減に靴に足を突っ込んで、外に出た。
ずっと遠くの空がほんの僅かに明らむ夜道。小高い坂を登ると、全く人気のない畑の一帯へたどり着く。わたしはそこで声をあげて泣いた。金切り声をあげて目を無茶苦茶に掻きむしり、しゃくりあげて嗚咽した。
しばらく泣きじゃくり、涙だか鼻水だか分からないものを服でごしごしと乱雑に拭った。熱くなった頬が夜風で冷えるまで、その場でじっとうずくまっていると、不意に背後で声がかかった。
「お嬢ちゃん、なんでこんなとこで泣いてるんだぁ」
飛び上がって振り返ると、痩せて小柄のお爺さんが鍬を肩に担いで立っていた。色あせた麦わら帽子にぼろぼろのタオル、一帯の畑の持ち主だろうか。
「ずみまぜん、がえりまず」
泣き腫らしてみっともない顔を伏せて、わたしはすくっと立ち上がった。
「なにかあったのかい?」
「いえ、だいじょうぶなんで、がえりまず」
「まぁ待ちなさい。じじいがおるから、もう少しここに居てなさい。もうすぐ朝日が登る。ここからの眺めはよろしいぞ。明るくなったら帰りなさい」
わたしは為す術なく、またへたるようにその場にしゃがみ込んだ。
「なにか悩み事かい?」
「まぁ……しばらく、調子が優れなくて」
「いかんねぇ。気持ちが暗いと足元まで暗くなってしまう。足元が暗いと辺りも夜みたいに真っ暗でよく見えんくなってしまう」
「……」
「光は大事だ。じじいがとっておきの魔法を使ってやろう。もう時期、夜が明け、日がい出る」
立ち上がると、遠くの山際が煌々と光っていた。夜の漆黒を光が焼いていた。
「ほれ」
お爺さんがわたしを指さした。するとどこからともなく風が体を撫で、足が地面を離れ、宙を浮いた。
「お、お爺さん……!?」
お爺さんの細く骨張った指先が、ちょいと上を向いた。途端にわたしはふわふわと吊り上げられるように空へ上昇し、陽の光に向かって風を切りながら空中を進んだ。わたしは情けない悲鳴をあげながら体を仰け反らせ、星の眠る光景を一瞥した。
……空を飛んでる。
鳥のように体は水平に進み、眼下には不規則に並んだ民家や、大きな池、草原が窺えた。やがて山際から朝日が覗き、煌々とおでこを輝かせた。わたしは思わず目を細める。
陽の光に照らされ、家々はくっきりと陰影をつくり、池の水面は眩く煌めいた。花や木は風を孕んで踊り、山の麓で揺蕩っていた朝霧さえ、ぱちぱちと光に照り映える。
「わぁ……」
大地が目を覚まし、虫や獣、人が動き始めるのだ。肌に暖かさを感じ、なにかが綻ぶ。
なんて素晴らしい、なんて美しいんだ。
わたしは、ゆっくりと山を這い出でる朝日の姿を呆然と眺めていた。その時だった。わたしの頭上、空の上の方から野太い叫び声が聞こえた。仰ぎ見ると、なにかが落ちてきている。人だった。男の人のようだ。
「わああああああああ!!」
それとなく近づいてくると、顔がはっきりと見えるようになった。
「凌!?」
呼ばれた彼は、わたしに気づくと手を振ってきた。
「琳!!」
夢に出て襲いかかって来たような冷徹な表情とはまるで違う、表情豊かないつもの凌だった。
わたしは体を反らして思わず手を伸ばした。すると彼も体勢を変えて腕を伸ばし、わたしの手を取った。
「どうしてここにいるの!?」
凌は轟々となびく風の中で叫んだ。
「分かんない!凌はなんでここにいるのよ!」
「おれも分かんねぇ!!」
にへら、と彼は笑った。陽の光が彼を照らし、瞳が煌めいた。わたしの瞳もこんな風に見えているのかな。
「そうだ、凌に聞きたいことがあるの!」
わたしは彼の耳元で叫んだ。彼はわたしに続けるよう、見つめて促した。ひとつ、ひとつ、言葉を選び、大きく息を吸い込んだ瞬間――
ヴー……ヴー……ヴー……ヴー
スマホのバイブレーションでわたしは目を覚ました。見知った部屋、見知った天井に、わたしは呆気にとられていた。
「……夢?」
どこからが?いつまでが夢だったのだろう。……あの夜は?
空はとっくに明るくなっていた。スマホを手に取ると着信の相手は凌からだった。母から「おはよう」とLINFのメッセージが入っていた。スマホを握る手は僅かに泥やかすり傷で汚れていた。体を起こすと、なんと片足だけサンダルを履いたまま布団に入っていた。
「……」
全くわけが分からず、不思議な思いのまま、凌の電話に応答した。
『琳!? おはよう!ごめん、起こした!?』
「ううん、大丈夫」
『おれさ、今朝すっげー夢見たんだ!空を飛んでてさ、めちゃくちゃ気持ちよくて、そしたらそこに琳もいてさ!』
「え?」
……夢じゃない……?まさか、本当に空を飛ぶわけ……でも同じ夢を見るなんてのも……
思考を巡らせていると、不意に例の黒いボールがキュッと音を出して、気の向くままに転がり、跳ねていた。わたしは目を疑った。
「うそ……」
『琳?』
畳を跳ねる黒々とした球体。
「……小さくなってる?」
無題 詠三日 海座 @Suirigu-u
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