影、それは竜


 ティシェが蹴りつけた狼は平然と立ち上がる。致命を外したとはいえ、深々と刺した手応えはあったというのに。


「……痛覚はとうに麻痺しているということか」


 過ぎた力は身を滅ぼすというが、まさに目の前の狼はそれだろう。

 決して少なくない赤が狼の腹を汚していく。

 と。突としてティシェの視界が揺らぐ。ふらりとした感覚にたたらを踏んだ。なんとか立て直し、倒れ込むのを防ぐ。

 体調の不調が尾を引いている。伝う汗を鬱陶しげに腕で拭った。

 ぎらつき始めた狼の眼光がティシェに向けられる。あまりの眼光の強さに身体が強張り、喉からひゅっと細い音がした。

 が、狼は興味をなくしたようにティシェから視線を外す。

 それに無意識下で安堵したとき、狼が新たに獲物と定めた存在に気付いて舌を打つ。

 竜を喰った狂った物は、さらなる力を求め、新たな竜を求める傾向にある。

 狼が見やる一点。その先には倒れ伏したままの――グローシャ。

 彼女は首筋から赤を流し、グルルと声をもらしている。

 先程狼にやられた首筋。砕かれた鱗から覗く傷が深いのかどうかは、ティシェのところからは判じられない。

 身体を起こせないのか、グローシャは立ち上がろうとはしない。けれども、狼を睨む橙の瞳から戦意は失われていない。

 だが、戦意だけを燻らせていても身は護れない。

 ティシェが地を蹴った。狼とグローシャの間に滑り込もうとするも、同時に駆け出した狼の方が速い。


「グローシャ――っ!」


 叫ぶも間に合わない。ティシェの蒼の瞳から、何かが溢れ滲む――そんな、刹那だった。

 ティシェの横を駆け抜ける影が一つ。

 思わずティシェは足を止めてしまう。そして、唐突に思い出した。今は夜だったな、と。

 夜は影竜カロンの領域だ。今はこの場の誰より速く、静かに動ける。

 グローシャと狼の間。そこにうごめく影が滑り込む。

 ぐっと影が盛り上がり、グローシャへと迫ろうとする狼の牙を受け止めた。

 影から伸びたのは、尾。その尾先を飾る、鉱石に似たそれが狼の牙を受け止め、普段は丸っこいそれが瞬時に鋭利に変じる。

 狼が唸り声をもらし、一歩跳び退る。口から、ぽたぽたと赤を滴らせていた。

 影の中で紅の双眸が狼を見やり、次第にカロンが顕現していく。尾先を汚す赤を振って払い、ひたと狼を見据えた。

 尾先だけでなく、カロンの持つ頭部の角先も、丸みを帯びた常のものから、鋭利なそれへと変じている。

 狼を据える紅の瞳は夜のように凪いでいた。それでいて、夜のような仄暗さをまとい、静かに狼を見据えている。

 カロンの背を見つめるグローシャは、彼が影竜だったことを改めて認める。影竜は灯竜よりも、竜としての強さを持つ。

 それからはあっという間だったように思う。

 もう竜ならばどちらでもいいのか、狼は定まらぬ瞳をカロンらに向けながら地を蹴った。獲物と定めたのはカロンか、グローシャか。もしくは、既にどちらも見えていないかったのかもしれない。

 明らかに動きの鈍い狼。痛覚は絶たれていたとしても、疲弊も消耗もするということだ。

 狼を静かに見据えていたカロンが、音もなく影に沈む。

 夜は影竜カロンの領域。ティシェが、グローシャが瞬きをしている合間に、彼の姿は既に狼の眼前に迫っていた。

 影から姿を現したカロンが、そのあぎとをくわりと開く。そして。


 ――嫌な音が、夜に響く。


 ひしゃげたような音がしたのち、狼は静かに倒れた。

 それからはもう、狼が動くことはなかった。

 その場に残されたのは、夜に潜むような息づかいと、赤で汚れた影竜カロンの姿だけ。

 夜闇に紅の双眸がしばらく浮かんでいた。

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