狂った物


 グローシャが身体を起こす。ぐるるともれる声は威嚇の声。彼女がまとう空気の色を変えた。

 その様子にティシェは目を細め、グローシャは彼女をその場に残し、戸口の方へと向かっていく。

 空気が緊張しているのかひりつき、残されたティシェは、怠さで重く感じる身体を叱咤して立ち上がった。よろよろとした足取りで戸口の方へと向かう。

 戸口の側ではグローシャが橙の瞳に険をはらませ、外を――正確にはその先の茂みを睨んでいた。

 彼女が警戒する気配を肌に感じながら、ティシェは戸口に寄りかかるように身をあずけ、同じように外へと視線を投じかけて――その光景に蒼の瞳を見開いた。


「カロン――!」


 もつれる足を前に出し、グローシャの横を通ってうずくまるカロンに駆け寄る。

 膝を折って彼に手を伸ばす。ふわりと鼻腔を刺激する鉄臭に眉を寄せた。

 カロンの前足から滲む赤を見つけ、そっと前足に触れて広げる。被膜が破れていることに気付いて、唇を強く噛み、険を目元に宿す。そして、グローシャが睨む茂みへ、鋭い視線を投げた。


「獣に追いかけられてきたのか――この臭いにつられて」


 常のティシェからは想像できない、感情に揺れる呟きが合図だったかのように、獣が茂みから躍り出る。狼だった。

 勢いよく飛び出して来た狼だったが、グローシャの姿は予想していたかったのか、視界に入れた瞬間、明らかに後ずさった。

 怯んだ様子を見せる狼は、グローシャを警戒しながらも、獲物を見定めるようにカロンを一瞥した。

 その眼光の強さにティシェは眉をひそめる。狼の瞳の奥に、渇きを垣間見た気がした。

 カロンを守るようにティシェが彼を抱え、そんなティシェらを守るようにグローシャが前に立ちはだかる。

 グローシャのぐるるという声が低く這うように、グルルと変じていく。

 狼がグローシャを睥睨しながら、姿勢を低くし、にじりにじりと回り込みながら距離を測る。グローシャも狼から目を離さず逸らさず、体内に抱える灯を烈しく明滅させる。

 ――刹那。狼が大きく身を振り上げた。

 グローシャが応戦するように尾を振るう。が、尾先の鉱石に似たそれが狼を殴打する前に、飛びかかった狼の牙がグローシャを襲う。彼女の首筋に牙を立てる。


 ――ぴしっ。


 ティシェの耳に小さな音、亀裂の走る音が届いた。瞬間。目の前で金のきらめきが舞う――それがグローシャの鱗だと理解する前に、ティシェはカロンを抱えて後ろに飛び退いた。

 ティシェが数瞬前まで居た場に、狼の前足が振り下ろされる。そこに陥没が生まれる。まるで大きな力で踏み抜かれたかのような。


「――お前、狂った物か」


 舌打ち一つ。ティシェは狼から目を逸らせない。

 動物の域を超えたその力。それを総じて『狂った物』と呼ぶ。

 竜には自然の一部が宿っているとされている。

 灯竜グローシャだって、影竜カロンだって、共に旅をしているというのに、未だにティシェは彼らが扱う灯も、影も、その構造がわからない。

 竜という種は、到底人の持つ知識では説明できぬ力を身に宿し、また人には扱えぬそれを扱う術を知っている。それが、そう謂われる所以だ。

 その血肉を口にすれば力を得られるという。人なら人の域を、動物なら動物の域を超える、それ。


「何処で竜の肉を喰ったんだっ」


 吐き捨てる台詞。

 着した足が震えている。息が上がる。身体が重い。汗が噴き出し、頬を伝って滴り落ちていく。

 次の打撃はかわせるだろうか。嫌な笑みが、常は乏しいティシェの顔に浮かぶ。

 牙を剥いてティシェと相対する狼の後ろから、グローシャの爪が振り下ろされる。が、狼の肉を浅く裂くだけで終わる。

 灯竜グローシャの爪はそれほど鋭くもない。戦いが得意な種ではないのだ。

 それでも、竜としての格は持ち得ているのだから、動物に遅れを取ることは少ない。そう、常の動物ならば。

 狼の前足がグローシャに振り下ろされる。悲痛な声がグローシャから迸った。先程噛み砕かれた鱗をやられたか。

 自身に迫る狼の向こうで、グローシャの身体が傾ぎ、くずおれるのが見えた。

 ティシェが抱えるカロンを放せば、懐から彼が転がり落ちる。

 常から腰に下げている短刀を抜き、咄嗟に構える。狙いは飛びかかろうとする狼の胸。致命だ。

 襲い来る狼。構えた短刀に確かな手応えがあった。だが、同時に肩に熱が走り、短刀を引き抜きついでに狼を蹴りつければ、それに沿って空に赤の線を引く。

 爪で肩を裂かれた。知覚するも、痛みは熱に隠されて伴わない。距離を取れば、致命を外したことに気付いて舌を打つ。生温かい感触が腕を伝った。

 が、それに視線をよこす余裕がティシェにはない。グローシャが地に倒れ伏したままなのは視認する。

 ティシェの腕から赤が滴った――瞬、地に転がり落ちままだった影が、ぞわりとうごめいた。

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