第97話 胸騒ぎ

 散々アランに愛でられた後、私は改めて彼の疲れを労った。


「本当にお疲れさま、アラン」

「ありがとう、エヴァ。本当は視察にエヴァも連れて行きたかったんだけど、さっさと終わらせるために、かなり過密なスケジュールを組んでしまってたから厳しいかなって……」

「気にしないで。あなたの大切なお仕事なのだし」

「別に領地なんて治めたいとは思わないんだけどな。俺としてはのどかな辺境の地で、エヴァと二人で静かに暮らせればそれでいいんだけど」


 アランって二十四歳よね?

 その発言、ルドルフぐらいの歳の方がするんじゃない?


 そんなことを考えながら、ぴしゃりと彼の言葉を否定する。


「それは駄目よ。ちゃんと王族としての責務を果たさないと」

「そ、そうだけど……別に俺は、エヴァさえよければ、平民に下りても……」


 確かに私は元々追放された後、新天地で平民として生きるつもりだったから、彼の提案には全く問題はない。

 だけど、


「だーめーでーす! 今まで祖国を離れていた分、御家族である陛下をお助けして? それにアランは王族に生まれて国の未来に関わることの出来る立場なのだから、フォレスティに住まう人々の生活や幸せを守って欲しいの」


 アランはただでさえ、十年という時間をクロージック家に費やしてきた。


 何かしらの目的でクロージック家にいたとはいえ、これ以上彼の大切な時間や能力を無駄にして欲しくないし、御家族から彼を奪いたくはない。


 それに、王位継承権を捨てているからといって、王族の責務から逃れられるわけじゃない。

 王族に生まれた以上、彼には果たすべき役目を課せられるのだから。


 私が公爵令嬢だったとき、アランに片想いしていても、家のため国のためにリズリー殿下に嫁ぐと決めていたように――


「それに私だって、あなたの傍にいて恥ずかしくないように毎日頑張っているの!」


 不服そうに唇を尖らせるアランに向かって、私は胸の前まで腕を上げこぶしを作り、笑って見せた。

 

 私は私で忙しい毎日を送っていた。


 以前イグニス陛下が仰っていた通り、アランの婚約者として恥ずかしくないように、様々な教育が始まったからだ。


 バルバーリ王国で名ばかりの婚約者だった私は、妃教育を受けていない。

 お父さまが生きていた幼いころに淑女教育を受けた記憶はあるけれど、すべてを学び終わる前にお父さまは亡くなり、私の立場は使用人に落されてしまったから。


 学ぶ内容は礼儀作法はもちろん、教養や社交術、フォレスティ王国の歴史や政治や、王族としての立ち振る舞いなど多岐に渡る。


 本来なら、幼い頃から長い時間をかけて教え込まれる内容を今、短期間で叩き込まれているのだから並大抵のことじゃない。


 今まで自由にしていた分のツケが来たんじゃないかと思うくらい、毎日勉強で忙しくしていた。

 夜になるともうクタクタで、余計なことを考える間もなく眠りについてしまう。


 だけど決して嫌じゃない。


 新しいことを知ることはとても楽しいし、出来ないことが出来るようになってくると成長を感じて嬉しく思う。


 教えてくださる先生方は厳しくはあるけれど、未熟な私を罵倒することも、理由なく叱責することもない。できるまで根気強く付き合い、できるようになればともに喜んでくださるような、心の広い方ばかりだ。


 それに……これらは全て、大好きな人の隣に立って恥ずかしくないようにするために必要なこと。


 だから、もっともっと頑張らないとね。


 アランの正式な婚約者として、陛下が納得してくださるように。


 私の言葉に、アランが僅かに眉をしかめた。


「エヴァの頑張りは、さっき兄さんから聞いたよ。短期間でたくさんのことを習得して、教師たちからの評価も高いって。それに一日の大半を勉強に費やしているとか。でも大丈夫? 無理してない?」

「大変でもないし無理もしてないわ。毎日、新しいことが学べて凄く楽しいの! だから心配しないで?」

「それならいいけど……」


 まだどこか心配を残すアランに心の底から笑って見せると、安心したのか彼の口元が緩んだ。

 そして肩から力を抜き、両腕を上にあげて身体を伸ばしながら、どこか諦めたように息を吐く。


「……それなら俺も、もっと頑張らなきゃな。エヴァに負けないように」


 アランもアランで、十年という空白を埋めるのに必死だ。


 まあバルバーリ王国に来る前まで王族として教育を受けていたから、基礎から学んでいる私とは違い、現在のフォレスティ王国国内、他国の情勢などについて学んでいるみたい。


 お互い、頑張っている。

 将来をともに生きていくために――


 だけど私には、越えなければならない大きな山がある。


「……リズリー殿下は、もう王都に着いたのかしら」


 幸せでいっぱいだった心に、ぽつっと浮かび上がった不安という名の滲み。


 もうすでに、フォレスティ王国からの抗議文書はバルバーリ王国についている。その返答は、リズリー殿下が戻ってきてから詳細を確認するとだけだったらしい。


 今は自分たちのことで忙しくしているけれど、本当に忙しくなるのはこれから。


 私の言葉に、アランはつまらなさそうに答えた。


「今日には王都ガイアスタに入ると報告があったけどね。だけどもうあの国に、エヴァをどうこうする力はないよ。例え、バルバーリ王国が戦争をしかけてきたとしても、衰退を辿っているあの国にフォレスティは決して負けないからね。あの国に残されている選択肢は、エヴァの提案を受け入れるか、滅亡を受け入れるかの二択だけだ」


 アランの真剣な表情をこちらに向けられる。


「何があろうとも、エヴァは絶対にこの国が――いや、俺が守るから」

「うん……ありがとう、アラン」


 いつもの力強いアランの言葉に私は微笑むと、そっと彼の肩に頭を乗せた。


 なぜかざわざわとする胸騒ぎを、見て見ぬふりをするかのように。

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