第15話/二章-②

「遅い!」


 正門にたどり着くや否や、紗里緒の叱責が飛んできた。大時計に目をやると、約束の十六時から長針が二分ばかり進んでいる。予想はしていたが……遅刻だ。


「たった二分だろう……この汗だくな姿を見てくれよ。これでも急いだんだ」

 濡れて透けるワイシャツを見せつけるように広げる。


「たとえ急いで来たのだとしても、私たちを待たせたという結果に変わりはない! 社会人でしょ! 時間は厳守よ!」


「はい……ごめんなさい」

 生徒に社会人の常識を説かれ、早くも心がきしみを上げる。


「まぁ、まぁ、揃ったのだから行きましょう」

 響が取り成すと、紗里緒はそっぽを向いて鼻を鳴らした。


「で、どこへ行くんだ?」


「それは着いてのお楽しみ……」

 当然の質問に対し、銀髪の少女は歪に微笑むと、


「しゅっぱーつ!」意気揚々と右腕を天へ掲げた。




 正門のロータリーに一台のタクシーが停まっている。下校する生徒たちが怪訝な目を向ける中、紗里緒は何の躊躇ちゅうちょもなく車内へ乗り込んだ。住所を言いつけられた老齢のドライバーが、軽く頷いて首肯を示す。しばらく走ると、ロードサイドの大きな建物へと入っていった。

ここは……


「……レクサス……?」


 俺とは全く縁のない、高級車販売店だった。

 訳が分からないままに、タクシーから降りる。呆然と突っ立っていても説明はなく、流れるように店内へ入ろうとする紗里緒を呼び止めた。


「待て待て待て! ここで課外活動とやらをするって?」


「そうよ」

 その気だるげな受け答えは短すぎて、なんの意図も測れない。


「車でも買うのか?」


「えぇ、まぁ。ここへ来て、それ以外する事ってある?」

 呆気ないほど軽い答えが返ってくる。


「お前、免許無いだろう?」


「アンタが、買うのよ」

 さも当然のような言い草に絶句し、固まる俺を気にする素振りもなく、歩を進める。


 玄関の手前で恭しく扉を開いた案内嬢が、

「お待ちしておりました、那津川様」

 丁寧な所作で店内へ促し、深くお辞儀してみせた。


「さぁ、響! ユピさん! 好きな車を選びなさい!」


「選びなさい、って……」

 苦笑いを浮かべる響とは対照的に、ユピテルは舞うように次々と展示車に乗りこみはじめる。


「ちょーっと! 待て待て待て!」

 俺は紗里緒へ詰め寄った。


「なんで、俺が車を買うんだ⁉」


「なんでって……車があった方が便利でしょ」

 それが雑用の仕事に含まれるとでも言わんばかりに、平然としている。


「いらねぇよ! それにこんな高級車、薄給の俺に買えるわけないだろ!」

 そもそも勤務二日目の俺には、初任給すら振り込まれてはいない。


「ローンにすればいいじゃない」


「ローンって……とにかく車なんていらないぞ!」


「アンタねぇ……」


 ようやく足を止めた紗里緒は振り返り、俺をまっすぐに見据えた。その迫力に気圧けおされて、無意識に足が一歩、退く。


「さっきから情けない事ばかり言って……ちょっとは器の大きなところを見せなさいよ!」


「んな、無茶な!」


「無茶じゃない! アンタって……」

 目を細め小首を傾げ、不機嫌なオーラを漂わせて近づいてきた紗里緒は、


「追い込まれたことないでしょ」

 微かな冷笑とともに俺の顔を覗き込んだ。


「アンタの作品を読んですぐにわかった。この作者は恵まれてる。甘ちゃんだってね。書きたい事なんてないのに、形ばかりの物書きを目指そうとしてる。ただ漫然と、思いついたネタを文章にしてるだけ」


「そんなことっ……!」

 ないとは言い切れなかった。


「文章から熱が感じられない。それはアンタが追い込まれてないからよ。境遇やコンプレックス、期待へのプレッシャー、締切に追われて切羽詰まった状況、今までに経験ある?」


「それは……」


「どうせ大学だって、親のスネを食い千切って通ったクチでしょ?」

 反論できない。


「いい作品を生み出す土壌は、情熱と渇望、そしてプレッシャー。苦しくて苦しくて、藻掻きながらも吐き出すように文字を紡いで、消しては書いて、書いては消しての繰り返し……」

 紗里緒の瞳には、思い出したくない過去を振り返る苦悶が浮かんでいる。


「書いて書いて認められないと、この地獄から抜け出せない。苦汁を飲み干すくらいの覚悟を持ちなさい。そのためにも車を買うの! アンタに足りないのは、そういうプレッシャーよ!」


 確かに、俺にはそんな経験はない。だが……


「それと車は関係ないだろ!」


「バレたか」


 ふざけんな――!


「……でも、シャルちゃんの言ってること、滅茶苦茶だけど少しは分かる気がするなぁ」

 ここへきて、今まで黙って聞いていた響はステップを打つように一歩を踏み出すと、


「私たち、みんな、修羅場を越えてきたもんねぇ……」

 試乗車の後部座席に寝転がるユピテルを眺めながら、しみじみと呟いた。


「ね、センセイ。私、あの車、乗ってみたいな……」


 響の指さした先には、黒塗りのSUVが停まっている。フロントガラスには上品なフォントで『試乗できます』の看板が掛けられていた。

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