第5話/一章-④
「まぁまぁ、待ちなよ。シャルちゃん」
いまだ構えを解かない暴力の権化のような女を押しのけて、もう一人の少女が顔を覗かせる。
黒髪のショートボブに僅かに跳ねた襟足。綺麗に整えられた太眉の下の、大きく黒目がちな瞳は深淵に似ていて、見つめていると吸い込まれそうな錯覚に陥る。少し下がった優し気な目尻が、ふくよかな胸元と相まって全体的に柔らかな印象を漂わせている。母性に混じる僅かな妖しさに惹きつけられ、目を逸らすことができない。見透かすような冷笑とともに、ゆっくりと近づいた少女は腰を屈め、蹲り震える俺の隣に寄り添うと、耳元にその唇をピタリと当てた。
「あなたは……」
ASMR動画を軽く凌ぐ破壊力を伴って、吐息まみれの囁きが脳を
「……だぁれ?」
くぐもった声、甘い香り、衣擦れの音、ほの温かい体温、吐息に混じる湿り気、五感を刺激するように怖気にも似た快感が全身を駆け巡る。
「お、おれは……」
高鳴る心臓と、浅い呼吸を整えようと一拍した、その時、
「早く答えろや!」
暴力女にまたしても蹴り倒された俺は、あっけなく床を転がった。
「シャルちゃん!」
ASMR娘のドスの利いた声と、
「ちょっと、黙ってようか……」
鈍く光る瞳に見竦められて、
「……はい……」
僅かにたじろいだ暴力女は素直に動きを止め、一歩退いた。その姿を、俺は床から見上げる。
しんしんと降り注ぐ月光を内包したかの如く淡く輝く銀色のロングヘアーは肩口で綺麗に切り揃えられ、きめ細かい絹束のようにサラサラと揺れている。異国の血が入っているのだろう……スッと通った鼻筋、切れ長の目元、主張の強い琥珀色の瞳。その超俗的な雰囲気と腕組みした仁王立ちが相まって、鋭い威圧感を放っている。凹凸の少ないスラリとした痩躯から、あれほどの踏破力が生み出されるのが不思議でならない。なにより、顔よりも先に下着にフォーカスした女は生まれて初めてだった。
「お、俺は、新任教師の和久井耀! 校長から総合文芸部の顧問を任されたんだ……」
一瞬の間隙を衝いて、早口で言い切った。可及的速やかに誤解を解かねば、身体がもたない。
「へぇー、和久井センセイ……ですね」
ASMR娘は両手を軽く叩いて朗らかに笑うと、俺の名を呼んだ。
「私は一年の紺野です。
「紺野……助かった。ありがとう……」
辛うじて立ち上がった俺の腕に紺野の肢体が巻きつく。
「ひびく。ひびく、って、呼んで……」
またしても耳元に吐息が吹きかかる。
「ちょっ……離れろ!」
「やだ! ひびく、って呼ぶまで離れない!」
振りほどこうと身体を揺らすも、悪戯っぽく微笑みながら絡まり続ける。
「わかった! 響! 離れてくれ!」
「はーい!」
からかい終えた響は呆気なく、おどけた敬礼姿で一歩離れた。
「茶番は終わった?」
憮然とした表情で、腕組みした暴力女が睨みつける。
「……き、君は?」
「アンタに名乗る名前は無い。顧問の話なんて聞いていない。お引き取り下さい」
時間の無駄だと言いたげな早口で、素っ気なく吐き捨てる。
「この子は
相方の不愛想を響が笑顔で補った。
「ちょっと! 響! 勝手に紹介しないで!」
「えぇー。いいじゃん。それに、顧問の先生は部の存続に必要だよ。このままだと部室、使えなくなっちゃうかもしんないし……」
「うっ……」
一瞬、苦虫を噛むような表情で息を呑んだ紗里緒だったが、冷静さを取り戻す儀式の如く俺を一瞥すると、小さく鼻を鳴らした。
「でもねぇ……こんなポッと出の訳わからん奴に顧問面されるのがムカつく……」
はぁ? 口の悪い奴だな……。
「確かに俺は教師としては新人だが、文芸の心得はあるぞ」
「心得……ねぇ。じゃ、好きな作家は?」
「……そうだな。この学校の卒業生である晴河夏彦の作品も全部読んだし、最近だと、直木賞のエントリーを辞退した覆面作家、
得意げに話す俺を、白けた視線が射抜いた紗里緒は、
「……何もわかっちゃいないわ……」
呆れたように頭を振る。
「はぁ? そういうお前は何かわかってんのかよ⁉」
「少なくとも、アンタよりか、ね……」
そう言って、気だるげに冷たく笑った。小賢しい、物知り顔がストレスを加速させる。
「どんな作品を好きかなんて、俺の自由だろ!」
「……自由だけど、その二人を同列に置く感性が信じられない……響ぅ、やっぱコイツ駄目だわ。私たちの顧問は別の人を探しましょう」
言いたい放題言いやがって……!
「しかも、ユピさんの寝込みを襲う変態だし」
「それは誤解だっつてんだろうが!」
さすがに我慢の限界だ!
「俺がお前らを指導してやる! ここは文芸部だろ⁉ なにせ俺はプロの作家だからな!」
この時の俺は短気だった、としか言いようがない。
「へぇ? プロの作家先生……なんて作品?」
紗里緒の口元に
「……『金井戸の夜』だ」
乱された心を見透かされないように、俺は素っ気なく答える。
「ふーん。聞いた事ないね」
目配せされた響は頭を左右にゆっくり振って否を示した。
机に置かれたパソコンの前へ腰を下ろした紗里緒は流れるような操作でロックを外し、調べはじめる。俺は生唾を飲み込んだ。
「ぷっ……ランキング圏外で販売数も出ないじゃん。出版社も潰れてて、絶版だし」
「うわぁ……レビューが一件も書き込まれてない……これなら酷評される方がマシね……」
「湧井耀一郎ってのがペンネーム? 捻りなさすぎ! これなら本名でいいじゃない」
「しかも、一作だけ? そりゃ、そっか。作家で食えてりゃ、高校教師なんてやらないよねぇ」
続々と繰り出される、一つ一つの正論が確実に心をえぐる。
「う……うるさい! 本を出すことがどれだけ大変か……お前は知らないんだ! 読んでもねぇのに、評価してんじゃねぇよ! すぐに持ってきてやるから、読んでみろ!」
煽りの連打に俺は部室を飛び出した。逃げ出したと言ってもいい。覆しようのない事実の陳列が頭の中をリフレインし、更に足を加速させる。廊下を駆け、職員室へ舞い戻り、御守りのの如く常に持ち歩いている一冊のハードカバーを胸へ抱えると、急いで部室へと踵を返す。
途中、相模原教諭に声を掛けられたように感じたが、敢えて気づかないふりをした。
取り乱していた。すべて図星だった。紗里緒の指摘は的確に、俺の痛い所を衝いていた。
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