文学、文学部に有用性ってあるの?
陋巷の一翁
文学の効用
文学部不要論ってありますよね。私が思うにあれはまったくの間違いだと思います。
もっとも今の大学の文学部の姿が正しいと諸手を挙げて賛成するわけではありません。
文学はもっと泥臭い学問です。もっと言えばナショナリズム的かつドメスティックな学問で、どちらかと言えば右翼的な学問です。でもまあ左翼的になる理由もわからなくはないです。たぶんこの二律背反にこそ、文学部の根本的な問題があるような気がします。
今回はそんな文学、もとい文学部の役目について論考をしたいと思います。
さて、そもそも文学とは何でしょう。
みなさんが文学と言って思い浮かべるのはどんなものでしょう。
人名でしょうか?
作品名でしょうか?
民話や伝説でしょうか?
文法でしょうか?
文字そのものでしょうか?
それとも言葉でしょうか?
さらに別の何かでしょうか?
まあどれでもいいんです。文学はそれら全てに関わります。そしてまた文学部も全てに関わるはずです。
そして結論を先に言えば、文学部とは自国語の整備をする学部です。自国の言語の有用性を担保する学問だと言ってもいいでしょう。
いま自国のと書きましたよね。そう自分の国の言葉です。つまり我々はそのたいていが日本人でありますから日本語、よその国であればよその国の母語が整備の対象になります。
右翼的と言ったのはこのとおりです。自国の生まれ育った母語を大事にするのですから、実に右翼的でしょう?
さらにここで注意しなければならないのは、英文学も、独文学も、仏文学も、外国語について学ぶ学問は、こと日本においては日本語の整備のために用いられると言うことです。なぜなら翻訳という概念がそこに存在するからです。われわれは翻訳によって知らず知らずのうちに言葉や熟語、考え方にいたるまで、海外の概念の輸入というものを行なっています。いまだと実業界からの輸入――翻訳が圧倒的に多いですが、文学的な要素からの輸入――翻訳もそれなりに多いです。いまだと映画、テレビドラマ、小説、哲学書などが文学的な要素になるしょうか。当然、反対に輸出も行っています。輸出するものは小説、アニメ、マンガ、ゲームなどが多いようですね。これももちろん文学的な要素です。
そのようにして互いの国同士が文化の輸出入を行うことは健全で当たり前のことです。
だったらいっそ世界共通語があればいいんじゃないか?
そう考える人もいるかも知れません。そう考えた人が主に左翼的な人です。けれどそれは野蛮な先祖返りでしかないのです。
ここで少し西洋の昔話をしましょう。たとえばそうですね、ロシア帝国の話など。
昔と言ってもそんなに昔ではなく19世紀初頭の話です。そのころロシアの上流階級ではフランス語ができないと話にならないというか、貴族のサロンでは恒常的にフランス語が話されていました。平民の話すロシア語は劣った存在として見下されていました。
それを変えたのが民族主義の概念です。
民族主義、簡単に言えば自分たちが所属している民族の根っこの文化や文芸、話す言葉などを大事にしようとする運動です。
ロシアでもその運動がおこり、フランス語ではなく下等とされたロシア語で文学や物語を書く人が現れました。
そしてそれを初めに行ったプーシキンやレーンモルトフなどといった作家達がロシア国民文学の父としてロシア人の誇りとなりました。「フランス語などに頼らなくたって、自分たちは自分の言葉ですぐれた文学を生み出すことができるんだぞ」って言う風に。
実際プーシキンの作品は世界中で翻訳されて読まれていますし、読まれていました。つまり世界で通用したというわけです。実際プーシキンのベールキン物語は私が大好きな作品の一つです。
話がそれました、同じような時期にドイツでも、さらに少し遅れてチェコやイタリアでもハンガリーでもフィンランドでも民族主義がおこり、すぐれた自国語の文学が生まれ、それを誇りに抱いて、最終的には独立国として歩み始めました。それが今の近代国家の原点です。
それまではどうだったのかというと、エリート(貴族)と庶民の言葉は入り交わらず、お互いの間に壁ができていました。そして壁ができているとい言うことは、エリート(貴族)は庶民のことを考えず、庶民はエリートのことを考えず、といった具合で断絶が起きていたわけです。上から下まで統一した言葉を持って始めて、国はすべての人の側を向いたのです。近代国家の要素をなす、一民族一国家、民主主義、普通選挙、などを実践するには、エリートの話す言葉と庶民の話す言葉の統一がどうしても必要だったのです。
ここまで言えばわかるでしょう。実際に西洋では共通の言語――フランス語を話す時代が実際にかつてあり、それはエリートが国民の側を向かない政治を行う時代でありました。それは政治と庶民を分かつあまり良くない時代だったと言うこと。つまり、共通語を別に設定すると使いこなせる人は良いですが、使いこなせない人の間に壁を作ってしまうということです。これはあからさまに帝国主義的な考えです。いまの民族国家の形態にはそぐいません。
もっと言えば民族によって統一された言葉、これは近代国家を語る上で切っても切り離せない概念なのです。
それを崩そうという人は、残念ながら象牙の塔の上で夢を見ているとしか言いようがないのです。
結論を先に書きましたが、海外の例は日本にもすっぽり当てはまります。日本の場合はかなり前、だいたい平安時代までさかのぼりますが。
そのころは……、高等教育で勉強した方もいると思いますが、中国の文化である漢字、漢文こそがすぐれた文字、文学で、カタカナやひらがなは女子供の使う文字という風潮がありました。それを変えたのが紀貫之や紫式部、あるいは清少納言が使ったひらがなで書かれた物語や日記や随筆です。
ここで彼らや彼女らは証明したわけです。自国の言葉ですぐれた文学が作れると言うことをです。そして国風文化が花開きました。いままであったどこか中国風のではなく、日本独自の文化です。つまり、日本が誇れる文化が生まれたってということです。
そしてもう一度日本語は危機にさらされます。それは明治維新の頃です。西洋の脅威の前に日本語廃止論なども出る中で、日本の学者達は膨大な西洋の用語を日本語に翻訳することで回避しました。そして翻訳した熟語などは中国などに逆輸入されました。中華人民共和国。人民、共和、どちらも日本人が西洋の言葉から翻訳した言葉です。
それよりは小さいですが日本の敗戦時にも日本語は危機にさらされたことも付け加えておきたいと思います。
ここまで書いてきて、別に日本人であることを誇りに思えなんて言うつもりはありません。ただ日本語、いや言葉という物は、これまでの過去のたくさんの人々が支えてきた重要なものだと言うことを知っていただければ十分です。
他国語もそれは同じです。自国語が多くの人々に支えられていることを思えば他国の言葉をおいそれと馬鹿にはできないでしょうし、他国の言葉がさまざまな他国の人に支えられてできていることを知れば、同じように自国の言葉もそうだろうと思えるでしょう。
ここまで文学、文学部の効用について述べてきました。ここで問題があります。
「文学の効用はわかったけれど文学部の有用性についてはまだお前は説明していない!」
と、言うことです。ごもっともです。では次回では文学部の効用について語ろうと思います。
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