第22話 少年ニコラスその5(マークとリンゴ)
5・マークとリンゴ
夜空を厚い雲が覆っていた。
欠け始めた月も、小さく瞬く星々も、地上の者の目に触れさせまいと、厚い雲が国中を覆っていた。
ランプがなければ足元もハッキリとしない夜を、その鳥は迷うことなく飛んでいた。
どこから来たのか定かではないが、一軒の大きめな家の裏庭に入ると、中央にある葉の落ちた大きな木に止まった。
その家は他の家より部屋数が多く、また窓が多かった。
一階の右端の部屋の窓に、小さな明かりが灯った。
ランプの明かりで、窓際のベッドで眠る幼子の顔がぼんやりと見えたが、すぐにカーテンが引かれた。
少し待つと、その隣りの部屋に明かりが移った。
今度は、窓を挟んで二つのベッド。
それぞれに安らかな顔で幼子が寝ていた。
そして、またすぐにカーテンが引かれる。
そんな感じに、一階から三階まで、十四の部屋を見ていた。
しかし、最後の部屋は違った。
今までは何もなくカーテンが閉められていたが、最後の部屋だけは、半分でピタリと止まり、カーテンを握ったまま女性が中庭の木を見上げた。
そこに『居る』と分かって居るのだろうか、女性は胸の高さにランプを上げた。
薄っすらと、左頬に大きな爪のような傷があるのがわかった。
視線はしっかりと木の上の影を見て、ゆっくりと残りのカーテンを締めた。
■
ここの裏庭には、ちょっとした家庭菜園と暖かい時期に花を咲かせる花壇、数羽の鶏とその小屋があり、中央には大きな一本の木が立っていた。
一枚の葉も残さず、寒さに耐えるようにそびえ立つ木の下で、寒さに負けぬよう厚着をした数人の子ども達が、唇の左端に黒子のある痩せた男を前に、足元の土に何かを書いていた。
「ここの綴りがちょっと違うかな。
こうでも良いんだけれど、文の流れから行くと、こっちの方が、雰囲気を壊さないよ」
「… ああ、そうか」
「マークせんせー、できたよぉ~」
「はい。
良く出来ました。
じゃあ、次は… ママ先生が林檎を三つ持っていました。
リリちゃんは皆で一つ食べました。
そこに、ニコラスくんが二つ持ってきてくれました。
林檎は全部で何個でしょう?
カリフ君、君は次にこっちをやってみて」
子ども達の足元は、勉強のためのスペースだった。
それぞれのレベルにあった問題が書かれ、正解すると消されて新しい問題が書かれる。
マークは一通り見ると、静かにその場を離れて建物の角までやってきた。
「あ、すみません。
お邪魔してしまったみたいで」
そこには、食材を抱えたニコラスが立っていた。
「昨日の夕飯のお礼に、なにか一品と思って来たんですが…
マークさん、体調はもう良いんですか?」
「おかげさまで、熱は下がりました」
「良かったです。
先生と聞いていたので、もっとこう…肩苦しい感じかと思っていました」
「故郷では、一応先生だったんだ。
小さな学び所だったけれど、ここと大して変わらないかな。
寒くても、今日みたいにいい天気なら、外で勉強しているんだ。
風を感じるのも、土の冷たさを感じるのも、勉強になるからね」
マークは胸元から小さな林檎を出すと、寂しそうに笑って一口齧った。
小気味いい音がして、林檎の一部がマークの口の中へと入った。
その途端、ニコラスは微かにだが生臭い匂いを感じ、白く見えるはずの果肉が黒く見えた。
「はい、ニコラス君もどうぞ」
そう言って、マークは手品のようにもう一つ、懐から小さな林檎を取り出し、ニコラスに差し出した。
「… あ、皆は食べたのですか?」
この林檎を、クレフが怪しんでいたことはよく覚えているし、ニコラス自身も食べるどころか、出来れば手にもしたくなかった。
「君も、子どもでしょう?
昨日、ニコラス君とぶつかった後、ほとんど売れたんで、そんなに残っていないんだ。
おやつ用の林檎はキッチンにあるし、林檎ばかり食べさせても栄養バランスが偏るからね。
売って少しでもお金になれば、それで栄養のある食べ物を買ってあげられる。
差別から保護されていても、国から頂ける援助金はそんなに多くないからね。
ここの子どもたちの他にも保護されている人もいるし、病気の研究にもお金はかかる。
自分たちで生活を成り立たせなきゃいけない。
… それでも、差別がないだけ自分らしく生きられるんだよ」
優しく微笑むマークに、ニコラスはジャガー病感染者やその家族がどんな扱いを受けてきたのか、改めて心が痛くなった。
そして、自分は本当に何も知らずに生きてきたのだと思い知らされた。
「あの、マークさん、よかったら僕にも勉強を教えてくれませんか?」
「もちろん、喜んで。
ニコラス君は、何が得意なのかな?」
すっと、ニコラスは抱えた食材の中に、受け取った林檎を素早くしまった。
「僕がいた集落には、同じ年頃の子どもが居なかったせいか学び所がなくて、勉強は独学でしていました。
分からないところは、母や神父様や集落の人たちが教えてくれました。
得意と言うか、好きな分野は、歴史・神史・薬学です」
「ああ、だから…」
「だから?」
「ニコラス君、同世代の子供と遊んだりするの、苦手でしょう?
皆との触れ合いが嫌いではないのだけれど、タイミングというか、距離感のとり方に戸惑いがあるなって思っててね。
他のことは、そつなくこなしているし、仕草や言葉使いはしっかりしているんだけれどね。
言ってみれば、子供らしくない」
そう言われて、ニコラスは苦笑を返した。
大人との距離感は良くわかる。
殆どの大人は、その距離感を今までの経験から会得しているから、ニコラスにも計りやすい。
しかし、当たり前だが、子どもは幼ければ幼い程その経験は数少なく、他人との距離感を計り間違え、友達と喧嘩になったり、不愉快な思いを与えたりすることがある。
そうして、子ども達は他人との距離感を覚えていくのだが、ニコラスにはその経験が薄いので、子ども達の中で動くことも発言することも、戸惑うばかりだった。
「マークさん、凄いですね」
「これでも、先生だからね。
そうだ、昨夜は保護者の方には怒られなかった?
子どもを一人で歩かせるような時間じゃなかったから」
昨夜、送っていくという申し出を、ニコラスは幾度となく丁重にお断りしていた。
「今の僕には、保護者と呼べる人は居ないので…」
神殿に帰った時のクレフを思い出した。
相変わらず感情のない表情で、本のページを捲りながら話を聞いていた。
あれがアニスだったら、普通の母親だったら、どんな対応なのだろう?
帰宅の時間の約束を、大きく違えた事がないニコラスには、想像がつかなかった。
何やら視線を感じて、ニコラスはそっと周りを見てみた。
いつの間にか、子供達がジィ… っとニコラスを見つめていた。
「あの、僕がここで勉強しても良いんでしょうか?」
言ってはみたものの、この中で一緒に勉強している自分を想像できなかった。
代わりに、あの質素な神殿の窓辺で読書に勤しむクレフを思い出した。
「もちろん、良いのよ。
お城の方も、暫くは落ち着かないでしょうから、ここでゆっくりしていればいいわ」
籠から山のように突き出た洗濯物を抱えたアンナが嬉しそうに答え、周りの子ども達もニコニコと笑顔だった
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