第16話 西のバカブ神その16(西のバカブ神ネメ・クレアス)
16・西のバカブ神ネメ・クレアス
とても暖かだった。
穏やかで暖かな空間に、それは立っていた。
絨毯のように広がる緑の大地に、幾本の根を絡ませながらつきたて、たくましい幹を上へ上へとのばし、その枝は太く細く四方に広げられ豊かな葉を茂らせ、そこに集う動物達に憩いの場を提供していた。
風が葉を揺らすと、太陽の光が雨のように降り注ぎ、花や緑を輝かせた。
そんな大木の根元で、小さな小さな白い竜を傍に、少年が安らかに寝息をたてていた。
風が悪戯に、まだ幼さない頬や柔らかなこげ茶色の柔らかな髪を撫でても、小鳥や小さな動物たちが緩やかに上下するその胸元にその身を置いても、少年は一向に目を覚まさなかった。
不意に、その女性は霧のように現れた。
真っ白な官衣を身につけ、豊かな金の髪を高く結い上げ、硬くつぶった両目の代わりに白銀の釈杖をついていた。
その存在はあたかも空気の様にその場に溶け込み、動くものは居なかった。
「貴方は私達の意志であり希望… それは、私の身勝手な望み。
それでも、望まずにはいられない…」
腰を落とし、囁きながら頬に触れた手は、少年の体温を確りと感じ取り微かに震えた。
その手首に、小さな小さな白い竜が尾を巻き付けた。
それはまるで、不安に苛む心を安心させるかのように優しかった。
「… 北星の女神メッセ・マジネルの導き多からん事を…」
その龍からクレフの魔力を感じ取り、女性は祝福の言葉を囁き消えた。
ほどなくして、少年はゆっくりと目を覚ました。
緑色の大きな猫目に、半球の白く透明な月が映った。
「おはよう、ニコラス」
何処からか戻ったココットが、ニコラスの顔の横に座った。
「僕、どれぐらい寝ていたの?」
ニコラスはぼんやりと半休の白く透明な月を見ながら、ゆっくりと聞く。
「二日ぐらいかな」
「二日…」
頭が痺れているようだった。
考える、思い出そうとすること自体が出来なかった。
ただ、『目を覚ませ』と頭に響いた声だけは確りと覚えていた。
あの後の記憶が、ニコラスにはなかった。
ココットの視線の先、ニコラスの視界にギリギリ入らないところに、その小さな小さな龍はいた。
「クレフの召喚獣がついてくれてるよ。
何をしてくれてたかは、分かんないけれど」
「… ありがとう」
ニコラスが小さくお礼を言うと、龍は首を軽く揺らした。
不意に涙が溢れた。
一つ溢れると、止まらなかった。
胸が鷲掴みにされてように悲しくて、寂しくて… 自分の気持ちが上手くコントロール出来ず、ニコラスは不安でさらに涙を流していた。
自分の知らない自分の気持が溢れて、涙になって流れていく。
「ニコラス…」
そんなニコラスの頬を、優しく撫でる手があった。
「姫様… 僕はどうしちゃったんでしょうか?」
体を横たえ、涙が流れるままのニコラスの隣に、レビアは腰を下ろした。
その体を支えるように、タイアードがすぐ後ろに座った。
「眠っているとき、誰かが泣いていました。
僕の知らない、でも、僕の知っている人。
目が覚めても、あの人の心が僕の中に…」
「その昔、神々が神話になる前、この場所には天を支える大地の柱がありましたの。
柱は神々の闘いでも燃えることなく、天を支えましたわ。
けれど、大地のバカブ神が眠りにつく時、何者かの手によって空間ごと封印されたのです。
この樹の下で栄えた国は、記録に残っていませんわ。
ただその後、新たに人が集まり村ができ、町になり、国になりました」
「城や城下町にいた人たちは…」
「心配いりませんわ。
ここが封印の地であったことはもう何年も前から分かっていましたので。
ここにあった城は、ジャガー病の研究施設として私が管理していたものですの。
国政を執り行っている城は、国の入口に。
城の者も、城下町の人々も、安全な場所に避難してもらいましたわ。
城下町全体にも結界を張りましたから、被害はここだけですみましたの。」
「そうだったんですか」
状況を確認できて、ニコラスは気持ちホッとした。
「何かが動き出したようですわね。
私も全体はまだ見えていないのですが…」
「僕も、無関係じゃないんですよね。
でも… ごめんなさい。
僕は、自分がどうすればいいのか分かりません」
ポロポロと涙を零すニコラスの頭を撫でながら、レビアはいつもよりゆっくり、囁いた。
「少し、昔話を聞いてくださいな。
大昔のお話ですわ。
神々が神話になる前、この世界には神族・人間・魔族がいましたわ。
主に人間の住まう第三世界を支えるのは、世界の端々にあると言われている四本の柱であり、それぞれをバカブ神が護っていましたの。
バカブ神とその一族は柱を中心に国を作り、時には人間を監視し、時には魔族から人間を守っていました。
そのうちの一つがあの大樹、大地の柱。
西のバカブ神、ネメ・クレアスの守る大樹ですの。
ネメ・クレアスは、全世界の中心にあると言われている聖樹の左手の血から産まれたといわれています。
聖樹はあえてその属性を最下層の第四世界に置き、闇の世界の総括者となりました。
その聖樹から産まれた大地の守護神であるネメ・クレアスは、地上神の中で唯一、害なく最下層まで行ける存在であり、時には魔族をも手なづけたと言いますわ。
ある時、総ての神々を巻き込んだ戦争が始まりましたの。
ネメ・クレアスは他のバカブ神同様、自分の国と人間を守る戦いの末、何者かの手によって大樹ごと封印されたそうですわ。
… ニコラス、貴方が大樹の根元で眠っているときから感じている感情は、亡くなった大地の民のものか、ネメ・クレアスのものか… その両方かもしれませんわね」
その柔らかく暖かな感触に、いつしかニコラスの涙も止まっていた。
「貴方は今回の戦いに参加するか否かを、選択することは出来ませんでしたわ。
きっと、これからも選択できることは少ないかと思います。
優しい貴方は、戦うことを望まないと思いますわ。
けれど、貴方が望まなくても、これからも貴方の周りで沢山の血が流れるでしょう。
ニコラス、これを…」
促され、ニコラスはゆっくりと体を起こした。
急に視界に入って来たタイアードが、ニコラスの目の前に突き出したのは、レオンを貫いた剣だった。
「僕の…」
「貴方の剣ですわ。
西のバカブ神、ネメ・クレアス。
あなた以外が使うと…もう、ご覧になりましたわね?
あの方だったから、あの程度で済みましたが、下手すると、存在そのものが消滅してしまいますわ」
その剣を、ニコラスは受け取ることができなかった。
レビアの声は優しいが、剣が纏う空気が重い。
それを手にすることは、自分が何者なのかを認めることだった。
「すみません、姫様… 僕、途中から記憶がないんです。
暇様に手を握ってもらって、落ち着いたら… そこから記憶がないんです。
それに、なぜ、僕なんですか?
なぜ、神父様が…」
ニコラスには一番聞きたい事があった。
「レオン神父を貴方の村に派遣したのは私ですわ。
あの方も、貴方ぐらいの年に家族をジャガー病で亡くしたそうです。
家族を亡くし、路頭に迷っていたレオン神父に手をさしのべたのが創造女神神官のサーシャ殿でしたわ。
サーシャ殿の導きで、レオン殿は神父になり、私の前に現れましたわ。
その頃、我が国が他国に先駆けジャガー病の研究のため、集落を作ったばかりでしたの。
レオン神父は憎いジャガー病を解明したい、病で悲しむ人を無くしたいと、集落への医師と神父として遣わせてくださいと仰っしゃりましたわ」
ニコラスは思い出す。
集落でのレオンとの日々を。
いつでも優しく、村の皆の為に尽くしていたレオンを。
「神父様は、どんな人だったんでしょうか?
僕は、神父様の何を見ていたのでしょうか?」
そして、獣になってしまったレオンを思い出した。
「あの村で、レオン神父になにがあったのか今となってはわかりませんが、ジャガー病を憎み、それに苦しむ人々を助けたいという気持ちは、本当だったと思います。
…貴方の母上様からの報告で、異変は分かりましたわ」
「神父様が言ってました。
母さんは… 母さんは、僕の本当の母親じゃないと。
母親面をしていたと…」
ニコラスは今でも思っていた。
レオンとの戦いや集落の教会での出来事が、夢幻であったらと。
しかし、レオンに言われたその言葉は、ニコラスの今までの時間を否定した。
あの幸せだった日々は夢でも幻でもなく、確かなものだと分かってはいても、誰かに肯定してもらいたかった。
心臓がドキドキしていた。
本当のことが知りたいのではない。
レオンの言葉を、否定してほしいのだ。
しかし、ニコラスは聞いてしまっている。
『貴方はちがうのだから』
別れ際のアニスの言葉を。
「アニスは…」
ニコラスの目にレビアの口が、異常にゆっくりと動いて映った。
「ニコラス、忘れちゃだめだよ!」
そんなニコラスに、ココットが大きな声をかけ、ニコラスの腰帯に下げた袋を前足で引っ搔いた。
「ここに、アニスからの手紙があるだろう?
オレッちと一緒に読んだじゃないか」
そうだった。
母からもらった手紙に、全てが書いてあった。
レオンの事も、アニスの事も…
「アニスは、何と?」
ニコラスは震える手で、手紙を取り出し、もう一度目を通した。
「神父様は… 僕といる時は本来の自分を保ってたと。
僕の見ていた神父様が、本来の神父様だと。
もし… もし見た事のない神父様が目の前に現れたら、それは神父様ではなく、神父様の姿をした獣だから… 躊躇してはいけないと…」
涙が溢れて、手紙に幾つものシミを作った。
「母さんは… ただ… ただ… 僕を愛してくれました」
ココットはさらにニコラスに訴えかけた。
「ニコラスの母さんも、ニコラスの神父様も、あの羽の生えた黒いヤツが殺したんだろ?
あの化け物だって、アイツがやっつけたんだ!
忘れちゃだめだよ、ニコラス。
忘れちゃだめだ」
「だね… そうだね… ココット… そうだね…」
ニコラスは手紙を抱きしめ、背中を丸くして激しく泣いた。
涙をぬぐうことなく、声を我慢することなく、何度も母の名を呟き、ただただ泣いた。
そんなニコラスに寄り添うかのように、ココットは足にそっと背中を預けて目をつぶり、レビアは優しく小さな背中を撫でながら眠りについた。
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