ノーフューチャー?
22世紀の精神異常者
ネヴァーマインド・ザ・フューチャー
俺が目を覚ますのは、たいてい時計の針が両方とも天辺を回ってからだ。カーテンの隙間から差し込む光はとうに途絶え、聞こえてくるのはパソコンのファンの音か隣人のいびき、そして時折近くを通りかかる車の走行音ぐらいのもの。
俺はずっと起動しっぱなしのパソコンから放たれる光を頼りに、足の踏み場もない部屋の中を歩く。腹が減ったから、買い置きしてあるパンでも食べようか。頭痛が続く頭でそんなことを考えながら、結局向かうのはキッチンではなかった。
「……んー、これでいいか」
俺は壁一面を埋める棚に手を伸ばし、一枚のレコードを手に取った。ずしりと感じる重みに心地よさを覚え、薄暗がりの中で近くのプレーヤーにセットする。
「……ああ、コーヒーどこだっけ」
レコードを回し始めたところで、いつものがないことに気がついた。俺は空になったジャケットをプレーヤーに立てかけて、今度こそキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開けると、青白い光が眩く部屋の中を照らした。目を細めながら目的のものを探す。……見つけた。独特なCMで有名なブラックの缶コーヒーだ。
一本手に取るとすぐに冷蔵庫を閉め、近くに放り投げてあるエコバッグの中から無造作にパンを一つ。今日掴んだのはシンプルなコッペパンだった。
近くのテーブルはすっかり雑多に埋め尽くされていて、無理やり押し退けないとコーヒーを置くスペースすらなかった。積み重ねてあった無価値な封筒の山が崩れ、脱ぎ捨てた衣服の上に覆いかぶさる。
こんな生活を始めてどれぐらいになるだろうか。昼夜が混ざり合って曜日感覚も失せ、単なる数字の積み重ねにすぎないものになってしまった。もう1年以上続けているような気もするし、一週間程度しか経っていないような気もする。パソコンの表示は、一番古い記憶からおよそ一ヶ月がたっていると告げていた。
レコードを回しているプレーヤーは、かすかにギシギシと妙な音を立てている。黒い円盤の一番外側の隅に針を乗せると、プチプチというノイズの後に規則正しい行進の足音、それに続き荒々しいギターの音がプレーヤーの異音と重なって鳴り出した。
「やってらんねえよ……クソ。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ」
小声で呟き、乱暴にパンの包装を破る。大きく一口かじると空いた左手でコーヒーを開け、口の中のパンを流し込むように飲んだ。
勢いばかりで技術もへったくれもないロックンロールが、高価なスピーカーから小さく響く。それがなんとも不相応で惨めな気分にさせられた。いったい過去の俺は何を考えてこんなしょうもない格好だけのガラクタを買ったんだろうか。
仕事を失ってから、食い物の買い出し以外でアパート出たことが一度もない。貯金もあっという間に溶けて、多分あと半年もしないうちにこのアパートを追い出されることになるだろう。
今持っているレコードの一部やスピーカーなんかは、売ればきっとある程度の金になるだろうから、それでどうにか食いつないで職を見つければよい。そんな考えに至っても、俺は動く気になれなかった。
このプレーヤーとスピーカー、そしてレコードのコレクションは、俺は真人間なのだというちっぽけな自尊心を保つために欠かせないものになってしまっていた。
「はあ……死にてえ」
思ってもいないことを口走り、その無責任さに虫唾が走った。無性に湧き上がる怒りと吐き気を誤魔化そうとコッペパンを頬張り、コーヒーを飲んだところで思い切りむせかえる。
勢いよく仰向けに寝転がった。背中でからのペットボトルを押しつぶし、鈍い痛みが走って声が漏れる。右を見ればゴミ、左を見ればゴミ。鼻で息をすると、妙な異臭で飲み込んだものが食道を駆け登ってくる感覚がした。
そのまま何もやる気が起こらず、ぼうっとノイズ混じりのロックンロールを聴く。せめて勇気づけてくれる曲だったらよかったが、英語の歌詞がよくわからないのでほとんどただの騒音に近かった。
「意味わかんねえ……こんなのただのゴミじゃねえか」
かつては大好きでよく聴いていたはずのレコードが、今では全く心に響かなかった。このところ毎晩そうだ。どれだけ愛聴していたものも、穏やかなものも、まるで別世界の自分に関係ないものであるように感じて、だいたいB面を聞かずにプレーヤーの電源を切ってしまう。それが最近のルーティーンだ。
今日もそうなるだろう、という確信がどこかにあった。片面六曲のそれはあっという間に終盤へと差し掛かっていて、今は最後の曲の中盤あたり。かつて聴き馴染んでいたフレーズだと他人事のように考えながら、焦点の合わない目で天井の照明を眺め続けた。
「……あ?」
突然、音楽が止まった。クライマックスの直前といったところで、まるで勝手に電源を落としたかのようにスピーカーが沈黙した。プレーヤーのベルトが切れたのだろうかと推測し、確認することもなく電源を落とす。
中途半端なところで切られると少し気分が悪かった。お前が聴く権利などないと言われているような気分になって、記憶を探り続きをよれた声で歌う。
「ノーオォー……フューウゥーチャァー……、フォーミイィー……」
歌いながら、どんな意味だったかと考えてみる。『ノーフューチャーフォーユー』だったような気がしたが、そんなことはどうでもよくなっていた。
フューチャーは確か、未来だ。つまり、ノーフューチャーは、未来がない。そして、フォーミーということは……。
「は、はは……サイアク」
クライマックス直前で止まったのはむしろ、プレーヤーの優しさだったのかもしれない。歌詞を思い出してこれほど絶望することになるとは思わなかった。今この瞬間、自分で歌って意味を考えたせいで、未来が本当に終わってしまうような気がした。
「うう……うぁ……くっ」
自分でも知らないうちに泣いていた。みっともない。泣いたところでどうなることもないのに。涙を袖で擦って拭ったら、埃が入って痛くなった。ひとしきり泣いて、顔と袖がすっかりぐしょぐしょに濡れてしまった。大きく息を吸って、またむせる。
部屋の鬱屈とした空気が気持ち悪くて仕方なかった。ここにずっといると気がおかしくなってしまいそうだ。俺は節々が痛む体を起こして、半ば逃げるように玄関から外へ出た。
「う、ぅん……はあ」
冷たい風が頬を撫でた。湿った熱を蓄えた体が一気に冷やされて、頭痛が次第に治まってきた。空には端っこが少し欠けた月と、ほんのわずかな星が光っていた。
部屋の外はこんなに心地よいものだったか。昼間は人がいっぱいで気持ち悪いだけだったが、今この世界には俺だけが存在しているようだった。
建物の電気は軒並み消えて、アパートの通路の蛍光灯と古い街灯が時折明滅している。自分の息遣いと足音以外は、何も聞こえなかった。
「……プレーヤー直さなきゃなあ」
またも思っていないことを口走った。だが、今回は不思議と言った通りの気分になってきて、自分でも自分がよくわからなくなってくる。
まあ、とりあえずはプレーヤーを直すための資金が必要だ。そのためにはまず働かなきゃならない。
「……今日は寝るか」
途中で考えるのが面倒くさくなって、そう結論づけて部屋に戻る。テーブルに放置してあったコーヒーの空き缶はキッチンのシンクに放り投げて、衣服に覆いかぶさった封筒をひとまとめにすると、俺は近くに転がる目覚まし時計を拾った。
「九時……いや、十時……十二時でいいか」
アラームをセットした時間は、最初に考えていたより数時間遅くなっていた。それを同じところに置くと、俺は布団の上に体を横たえる。
通りを走る車の音をどこか遠くに聞きながら、俺は眠りについた。
ノーフューチャー? 22世紀の精神異常者 @seag01500319
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