白紙の紙

遠藤良二

白紙の紙

 俺は昨夜、我が子をたたいた。まだ、1歳に満たない女児を。子どもの名前は、松山心まつやまこころ、0歳。今年の1月に産まれた。


 心は夜泣きが酷く、夜中に何度も泣く。だから睡眠不足。いらいらしている。なので、思わずてのひらで頭を軽くたたいた。すると心は泣き出し、もっとうるさくなった。アパートなので1階の住人にも迷惑。当然だが心は泣くのが近所迷惑など、思うわけがない。乳児だから。そのたびに俺は目を覚ます。もちろん、妻のみやびも起きる。


 俺の名は誠二せいじ、25歳。


 俺も我慢はしている。妻の雅は俺が叩いたからか、

「ちょっと! なにすんのよ! やめてよ」

 と怒る。

「だって、毎日じゃないか! 心の夜泣き!」

「それは仕方ないじゃない! まだ、赤ちゃんなんだから」

「毎回、起こされてイラつくんだよ! ストレスだ!」

「誠二、あんたってひとは……。父親でしょ! 理解してよ!」

 俺はだまった。


 理解、か……。子どもはかわいいと思っていた。でも、実際子どもがそばにいるとかわいいだけじゃない。もちろんかわいいときもあるが。


 雅も苛々しているのは感じる。でも、それを口に出さないのはえらいと思う。さすが母親。見習うべきところかもしれない。でも、いざ夜になり寝静まって心が泣き出すと、やっぱり苛々してしまう。うるさいから。


 俺は徐々に心をたたく力もつよくなり、その回数もふえている。そのたびに、雅におこられる。

「いい加減にしてよ!」

 と、だんだん妻はあきれてきているように感じる。


 そしてあるとき、雅は、

「あたし、心を連れて実家に帰るから! あたしと雅がいないあいだ、父親としてどうするべきか考えて!」

 そう言って朝8時ころ出ていってしまった。そのあいだ飯はどうする? 仕事から帰ってきても風呂も沸いていない。独りだ。そんなのいやだ。


 俺はそういうことに耐えられないと思い元カノにLINEを送った。

 返事は昼休みにきた。元カノの名前は藍沢怜あいざわれいという。年齢は忘れた。別れた理由は怜の浮気。でも、もうそんなことはどうでもいい。

<誠二。どうしたのよ。急用って>

<家のことをやってくれないか。俺は仕事でご飯も風呂も沸かす時間がないんだ>

<は? 奥さんは?>

<実家にいる>

<何で帰っちゃったの?>

<娘の夜泣きが酷くて、俺がたたいたりしたから今朝出ていった>

<そうなんだ>

 怜は馬鹿にしたように鼻でわらった。あいかわらず気に障るわらいかただ。でも、そんなことを言ったらなにもしてくれなくなるはずだ。だから我慢。

<いま、付き合ってる男はいるのか?>

<いるよ。たまにしか会ってないけれど>

<そうなのか、じゃあ、俺の家にこれないよな?>

<彼が仕事に行ってる時間帯なら行けるよ>

 いいやつなのか、ただかるいだけなのかわからないが、来てくれることになったからOKだ。

<じゃあ、昼間ってことだろ?>

<そうね。でも、わたし昼間一人で誠二の家にいるのは嫌だな>

<なんでだよ?>

<だって、誰がくるかわからないし、最悪奥さんがきたらどうすればいいのよ。会ったこともない人なのに>

 怜の言っていることは正当だ。じゃあ、どうしよう……?

<たしかに。うーむ……。じゃあ、俺は晩飯はコンビニとかで買って、風呂はシャワーにするわ>

<そう、じゃあ、わたしは行かなくていいのね?>

<そうだな、頼んどいて悪かったな。でも、妻が帰ってくるまでのあいだくらい遊びにこいよ>

<行けたらいくわ>

 それでLINEは終わった。妻からは1本の電話もこない。そんなに怒っているのか。

こちらから電話をするのはなんだか情けないようで気が引ける。


 それから3日後。怜から20時ころLINEがきた。

<どう? 考えてみた?>

<何を考えるんだよ? 我慢するしかないだろ>

<結論はそうだから、もう心をたたかないって思えた?>

<うるさくてもたたかなければいいんだろ>

<そういうことだよ。暴言も吐かないでよ>

<わかったよ>

 正直、うるさい女だな、と思った。

<じゃあ、もう少ししたら帰るから>

<ああ。気を付けて帰ってこいよ>

<ありがと>

 これでLINEのやり取りは終わった。


 22時頃、チャイムが鳴った。雅と心が帰って来たかな。そう思い玄関の鍵を開けた。すると違う奴。藍沢怜が来た。しかも、酔っ払っている様子。これから雅と心が帰って来るというのに。怜は露出度の高い服で思わずそそられた。だが俺は、

「どうしたんだよ! これから2人が帰って来るんだ。今日のところは悪いが帰ってくれ」

「はあ? 心配して来てやったのに。わたしは都合のいい女じゃないよ!」

 俺は苦笑した。都合のいい女だ、怜は、と思った。それを言ったら殺されるから言わないけれど。

「しかもお前、酔ってるだろ? それで、運転してきたのか。馬鹿じゃねーのか」

「わたしだって飲みたい時ぐらいあるよ!」

「何だ、また喧嘩でもしたのか?」

「そんなのあんたに関係ない! 頭にきた! 帰る!」

「ああ、また今度な。飲みにでも行くか。その後、抱いてやるよ」

 俺の話を最後まで聞いてたのかは分からないが、白い軽自動車で帰った。


 俺はバレなければ何をしたって構わないと思っている。例えば、万引きにしろ、浮気にしろそういうことだと思う。何かの漫画で読んだが、

「真面目に生きちゃ馬鹿をみる」

 というテーマソングがある。全くその通りだと思う。でも、1つ反論するとすれば真面目に生きて何が悪い? 真面目な方が信用も付きやすいのでは? ということも思う。こんな俺でもこういう真面目なことを思う時がある。世の中、結果オーライだ。そんなことを考えている内に1台の青い乗用車がアパートの前に入って来た。次

こそ、雅と心だ。俺の中では帰って来るのが少し心待ちにしていた部分はある。雅は俺を凝視している。何を思っているのだろう。俺も雅を見詰めている。そして、彼女は俺から目線を外し、一旦外に出て助手席に回り、心を抱いてこちらに向かって歩いて来た。俺は、

「よう!」

 と声を掛けた。

「ただいま」

 雅は微笑んでいる。気分がいいのだろうか。

「帰って来るの結構早かったな」

「何それ、居ない方が良かった?」

 雅の表情から笑みが消えた。

「いやいや、そんなことはないよ。早く帰って来ないかなぁと心待ちにしてたよ」

 妻は苦笑いを浮かべた。家の中に入りながら、

「本当にそう思ってる?」

「思ってるに決まってるじゃないか」

「それならいいけどさ、ほら心だってパパがいるから笑ってるじゃない」

「おっ! ほんとだ。こういうのがかわいいよな、心は」

 俺も思わず笑った。


 だが、数日後。俺はまたやってしまった。可愛いと思ってたのに。いや、確かに可愛い、心は。でもやはり、睡眠を妨害される日々が続いて苛々が募り、

「心! うるさい!」

 と怒鳴ってしまった。すると雅は、

「誠二! 約束が違うじゃない! もう怒鳴らないって言ってたのに」

 雅は凄い形相で俺に向かって言った。

「やっぱり、うるさいものはうるさい!」

「酷い人!」

「お前だって、本心はうるさいと思っているんだろ!?」

 俺も負けずに怒鳴った。

「本音はね! でも、それで怒鳴ったりはしない! この子にはあたし達しか味方が

いないのよ? あなたがこの子を守らないっていうなら、あたしが一人で守る!」

「どういう意味だよ!」

 そう言うと雅は一瞬、躊躇ったように見え、俺から目線を外した。だが、

「そのまんまの意味よ!」

「別れるって言いたいのか!?」

 そんな気無い癖に! と思ったが、グッと堪えた。

「そうよ! 貴方みたいな酷い人、父親失格よ!」

「なにぃ! 父親失格だとぉ!? そうかいそうかい、お前は立派な母親だかな!」

 そう言うと、

「何、その言い方! むっかつく!!」

 と言い返してきた。

「経済力のないお前が子どもを一人で育てられるわけがないだろう!」

 俺がそう言うと、

「働けばいいだけじゃない! 今は誠二がいるから専業主婦をしているだけよ! いざとなればベビーホームだってあるし」

 強気な発言をしてきた。

「雅、お前本当に俺がいなくなっていいと思っているのか? 一人で働いて子どもを育てるって相当大変だと思うぞ? それでもいいのか?」

「何よ、急に真面目になって。そんなこと承知の上よ」

 俺はもう1つ質問した。

「それと俺のことはどう思ってるんだよ? もう愛してないのか?」

 俺は雅の顔を凝視しながら言った。すると、

「子どもを育てながら必死になって生活しなくちゃいけないんだから、いつまでも

愛だの恋だのって言ってられないじゃない!」

「それは、俺に愛がない言い訳だ」

「そう思うならそう思われても仕方ない! あたしはさっきも言ったけど子どもは1人でも育てる!」

「そうか! わかったよ! 離婚だ! 明日、離婚届け取りに行ってこい!」

 俺は感情の向くまま言ってしまったことを後悔した。


 翌日、俺は仕事から帰って来て、居間のテーブルの上を見ると三つ折りにしてある紙が置いてあった。もしかして……離婚届け……?


 雅は台所で夕食の準備をしている。俺が帰って来たことに気付いていないのか。俺は、「今帰ったぞ」と、言った。

「おかえり」

 雅は言った。

 その後、

「この紙は……?」

 俺は開いてみた。案の定だ。雅は本気で俺と離婚しようと思っているのか。感情的になった勢いで言っただけなんだが……。俺は……謝るべきか? でも、離婚届けの紙は何も記入されていない。何であいつは先に書かないんだ? 離婚する気がないという意味か? 俺は雅に声を掛けた。

「これ、なんだよ」

「見た通りのものよ」

「でも、何で何も書いてないんだ?」

「その気があるなら、貴方が先に書いてよ」

「俺を試しているのか?」

「また、そういうこと言うし」

「だって、そうだろ」

「誠二が今日持って来いと言うから持ってきたのよ」

 俺はその場で離婚届けをクシャクシャに丸めた。

「こんな物!」

 そして、ゴミ箱に捨てた。すると雅は笑みを浮かべた。彼女は、

「もし、記入したら怒鳴り散らしてやろうかと思ったのよ」

「そうなのか。そうはさせないぞ」

「あたしの男を見る目は狂っていなかった」

「ああ。だから、今まで通りの生活を送ろう。もう、怒鳴ったりしないから」

「本当かな?」

「本当だよ。信じてくれ」

「わかってるって。貴方は学習能力があるって知ってるから」

「そうか」

 そう言って、笑っていた。俺は同じような過ちを繰り返さないよう、気を付けようと心に決めた。


                                (終)

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白紙の紙 遠藤良二 @endoryoji

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