第32話
帰郷の日がやってきた。たったの数日。僕はストレスで体調を崩し、二週間の間学校を休んでから学校に戻る事になっている。
──すっかり日焼けした僕は、あまりにも不自然だと思うけれど。
帰りの飛行機のチケットは既に購入済みだ。十六時三十五分の飛行機──飛行機はおろか、船の時間もずらすことができない。
今日の天気はおおむね晴れ。雲は多いけれど、遙か南の海上で台風が生まれたなんてニュースがなければ僕にはわからない。
「飛行機で食べる用に、炊き込みご飯のおにぎりつくろっか」
ヨゾラは普通にしている。彼女にとっては感傷を抱えてやってきて、そうしてまた新たな感傷を抱えて島を去る人にいちいち付き合ってめそめそしていたら身が持たないのだ。
まだ時間はある。けれど何かをするにはあまりに短すぎて、もう何をしたらいいのかわからなかった。そうして僕は、今までみたいに、ただただ彼女の産み出す音に耳を傾けながら、ゴーヤに水をやるのだった。
ヨゾラはゴーヤの種をくれた。丈夫な植物なので、東京のベランダでも育つはずだと教えてくれる。
「港まで送るよ」
車には乗らず、ゆっくりと、カタツムリのようにゆっくりゆっくりゆっくりと、僕たちは坂を下っていく。小さな浜辺を通り過ぎ、港の真ん中で立ち止まる。
行きと同じジェット船が静かに旅人の訪れを待っていた。
「とうとう来たね」
そう。別れの時が、来てしまったのだった。
僕がもっと大人だったならばここで一緒に暮らすことも出来るし、逆に彼女をここから連れ出すこともできるだろう。
しかし今の僕はただの高校生にしかすぎず、何の代替案も持っていない。ひとまずは、帰るしかなかった。
現状は家出少年が来て、島の少女が出迎えて、そして見送っただけ。ただ、それだけの話なのだった。
「それじゃあね……」
「やっぱり、ここから離れたくないよ」
朝は普通の顔をしてだらだらしていたのに、ギリギリになっていきなり感情的になる僕は傍目から見るととても滑稽だろう。しかし、どうしようもない衝動がわき上がって来て、言葉を抑える事が出来なかった。
「そういう訳には、いかないよ。言ったでしょ。……この島に流れ着くには、君はまだ、可能性がありすぎるから」
「また、僕、ここに……」
彼女に僕はまた来ると、これは一時の気の迷いではないのだと、どうしても宣言したかった。
しかしヨゾラは手で僕の言葉を遮った。何を言いたいのか、言わなくても分かっているのだと言わんばかりだった。
「あのね、ハルト君。あたしはまた来てね、とは言わないよ」
僕はヨゾラの言葉に耳をかたむける。泣いている場合ではないのだと、涙が一時的に引っ込んだ。
「この島に来た人はみんなすごくいい所、ずっとここにいたい、暮らしたい、って言うけれど……戻って来た人はいない。ここは沖縄に沢山ある島の一つにすぎなくて、行き先を選べる人にはもっと他に沢山行くべき所がある。そうして、色々体験している内にこの島は思い出の、遠い出来事になってしまうの」
そんな事はないと否定するのは簡単だった。けれど、彼女の言葉は実感を伴った真実だ。
「でも、それが正しい事。人は忘れる生き物。だから……無理をしないで。戻ってこなくても、そのことで罪悪感を持つ必要はないから」
ヨゾラは僕のような願望ではなくて、その先の現実を見据えている。
「ここから連れ出して、迎えに来て、なんて言わない。でも、忘れないで。大人になって、立派になって。どこにでも自分の力で行けるようになった時……あたしの事を思い出して。きらきらな思い出の中に閉じ込めておいてよ」
──そうすれば、あたしはずっと綺麗なだけの思い出のまま。記憶の中だけでも、素晴らしい存在でいられるの。
ヨゾラは一度言葉を切った。乗船開始の合図があり、島からどんどん人が減っていく。
「ほら、もう行かなきゃ。色々、本当に色々言ったけど──あたしはこの島が好きなんだと思う。それに気がつけたのは、ハルト君がこの島を褒めてくれたかもしれない。だから、あたしはずっとここにいるよ。行動しない事を、選ぶ」
そして、あたしはあなたを待たない。
ヨゾラはよどみなくはっきりと、そう言った。僕を待つことはしない。だから僕も約束をして、自分を縛ることはしなくていいのだと。
「ここで終わりだよ。ありがとう。元気でね」
ヨゾラがすっと僕の肩を船の方へ押した。僕は見えない波にさらわれるように、船内に引き込まれていく。座席に押し込まれて、顔を上げた時、もう小窓からヨゾラの姿は見えなかった。幻みたいに、実在したのかわからないぐらいに、消えてしまっていた。
船が揺れて、胃の中がぐるぐるして、吐きそうになる。ただただ、ぶれる白い天井を眺めている。
彼女の言うとおり、僕の旅も、彼女との関係も、終わりだ。
冒険は終わり、日常へ戻る。今なら引き返せる。戻って、僕は僕のすることを、ヨゾラはヨゾラのすることを。
日本は広くて人生はそれぞれ違っている。努力できること、選択肢があること。それ自体が、すでに自由の象徴だ。ヨゾラは僕を縛らなかった。僕は再び、自分のあるべき場所へ近づく。
徐々に、世界は文明を取り戻していく。ゆいレール、那覇空港。東京へ帰ることは両親と、そしてヨゾラとの約束だ。一つずつ、その目標をこなさなければいけない。
『ありがとう! また来てね!』
明るい海を背景に、陽気なポップ体で描かれた看板を横目に、僕はベルトコンベアに乗せられた荷物の様に、淡々と搭乗手続きを済ませていく。
『この飛行機は羽田空港……』
機械的で正確なアナウンス。僕はヨゾラと一緒に作ったキーホルダーをぎゅっと握りしめた。
僕の心を残したまま、身体は遙か上空へ飛び去っていく。飛行機の窓から小さくなってゆく島を眺めていると、まるで重力に引っ張られて、今までの思い出がボロボロと剥がれて行くような感覚に陥った。
ああ、これが「そういうこと」なのだ。彼女の言っていたことが、その瞬間はっきりと理解出来た。
島が遠くなっていく。海の感触が鈍っていく。
思い出になんかしたくないのに。手から砂粒がすり抜けるように、すっと沖縄が体から抜けていき、頭の中にぼんやりとした海の青さだけが残る。
こうやって僕も、今までの旅人も皆、沖縄にずっと居たいと思っていた気持ちを失い、また東京人に作り直されていくのだろう。島が素晴らしいところと思いながらも、その感情を忘れてしまうのだ。
シートベルトの着用サインが消える。僕は座席の下からリュックを取り出し、中に入っているおにぎりを二つ、取り出した。
くしゃくしゃに丸められたアルミホイルをゆっくりと剥がし、おにぎりをゆっくりと噛みしめる。これだって、きっと数ヶ月もしないうちの僕の中からなくなってしまうのかもしれない。
そう思うと、こんなに大粒の涙が出るのか? とびっくりするぐらい、後から後から涙が溢れてくる。
窓の向こうはほんの少しづつではあるが薄暗くなりはじめた。沖縄は、ヨゾラは──僕がいなくなったベランダで沈んでゆく夕日を見ているだろうか。
それとももう普通の生活に戻っただろうか?
沖縄の思い出を空で上書きしたくなくて、僕はまぶたを閉じた。
次に目が覚めたのは、着陸のアナウンスが流れた時で、いつの間にか僕の体には毛布が掛けられている。知らない大人の優しさがしみるのと、自分が弱い子供にしか見えないのだと言う若干惨めな気持ちがない交ぜになった。
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