第30話

「イエローサブマリンに乗るよ」

「ビートルズ?」

「そう。そんな感じ。水中遊覧船」


 水中遊覧船。言葉をそのままとらえると、海沿いの観光地にあると言うアレだろう。自由度は少ないものの、水泳が出来ない人や小さな子供連れには確かにそちらの方が便利かもしれない。


 船が停泊している様には見えなかったけれどヨゾラに導かれるがままに進んで行くと、海上に謎の黄色い出っ張りがあった。近寄ってみると、確かにそれは潜水艦のようなずんぐりとしたフォルムをした船なのだった。


「これに乗るの?」

「もちろん」


「まだ、ウミガメを見ていないでしょ」


 ヨゾラはそう言って、僕のTシャツにプリントされているウミガメのプリントをつん、とつついた。


 そばに立っていたガイドの女性が乗船を促す。はしごを伝い、船の下部へと乗り込むようだ。中は思いのほか明るい水色で満たされており、ちょっとした水族館みたいだ。


 人が座れるスペースは狭く、座席と言うよりは壁と壁の隙間にベンチが無理矢理詰め込まれているような構造で、定年退職した後の旅行客だろう何人かの男女が船体の前の方に席をとっていた。


 僕たちは自然と後ろ側の席に腰掛ける事になる。ヨゾラは僕の隣ではなく、一つ前の席に座った。空調がきいているのか、蒸し暑さはない。


 透明な板の向こうにはすでに海が広がっており、ごろっとした岩やカラフルな魚を確認することができた。


 何度見ても、こんな近くに生き物の気配がするのが新鮮な気持ちだ。


「普段はね、人数が四人ぐらいは揃わないと出港しないから。ほかにお客さんがいなければ乗れないし、逆に予約がいっぱい過ぎてもだめ」


 なるほど、平日の旅行はいいことずくめのように思えるが、そのようなリスクが多少なりとも存在するのだった。


「珊瑚の密集しているあたり──ダイビングスポットまで船に行けるの。シュノーケリングでも多少は観れるけれど、深いところまでいかないと、本当のところはわからないから」


 船がゆっくりと動き出したことを、エンジンから生まれた泡が教えてくれる。


 窓に額がくっつきそうなほどに顔を近づけて、ヨゾラが僕にくれたものを一つも見逃すまいと、目を凝らす。


 稼働音なのか、水の音なのかわからないごうおおとした音が、遠くに聞こえてくる。


  太陽の光が鈍く差し込み、海中は水色の絵の具に白を混ぜたみたいに僅かに濁っている。 シュノーケリングは真上からだが、船は海中に沈んでいるために、随分遠くまで海中を見渡す事ができ、所々に珊瑚を確認することができた。


「雨が降ると水が濁るから心配していたけど、まあまあみたい」


 ヨゾラは天井を指差し、魚の説明書きがあるよ、と僕に告げた。確かに天井や窓の上には、魚のイラストと共に説明書きがある。しかし外で悠々と泳いでいる実物と、イラストの魚を一致させる事はほぼ不可能のように思われた。


「全然わかんないよ」

「あたしも詳しいわけじゃないからなあ。食べたことがあるか、ないかぐらい」


「ヨゾラがとん、と窓を指さした。群れをなして船の横を通り過ぎる魚は、確かに『食べ覚え』があった。


「あ、なるほど」


「うーん。あとはね……あれなら、知っているんじゃない?」


 ヨゾラは海底を見ろ、と僕に言った。細長い、黒い体がするすると岩の間をすり抜けて行くのが見えた。


「……うなぎ?」

「ウミヘビでしょ?」


 僕が反射的に呟いたその言葉に、ヨゾラがその発想はなかったわ──と笑った。


「初めて見た」

「むしろ、生きているウナギを見たことがない!」


 周りの乗客の迷惑にならないよう、笑いを噛み殺すヨゾラを見て、彼女の笑ったところよし、寂しげな顔をしている時の方が印象に残っているのだと思った。


 もっとばかばかしい、軽く笑えるようなことをどんどんと口にできたなら、彼女をもっと笑顔にすることができるのだろうか。


 ……そういうわけでは、ないかな。


 ジョークの才能はまったくない。何の才能があるのかと問われると、何も言えないのではあるが。


 僕の思考がぐるぐると回転し、動きを止めて淀んでしまっても、船は止まらない。否応なしにどんどんと沖の方へ進んでいる事を、通り過ぎていく魚のサイズが大きくなっていく事で知る。


「あっ、ほら」


 ヨゾラの声に、とうとうウミガメがいたのか──とのぞき込むが、そこに居たのは海底でレクチャーを受けているらしいダイバーだった。


「人間かー」


 脱力して窓から顔を離して天井を見上げた僕に対してヨゾラはそろそろ、と告げた。


「ダイバーがいるって事は、もうかなり近くまで来ているってこと。見つけたら他の人にも教えてあげないと」


「そんなもの?」


「相手もこっちも動いているから、あっち言う間に潜り込まれて見えなくなるよ」


 確かに同じ船内に居て、一瞬の違いでウミガメを見ることが出来る人とタイミングを逃して見ることができない人がいる、と言うのは不公平とまではいかないまでも、自分が後者だったならばがっかりした気持ちになるだろう。


 ヨゾラの言うとおり、もうまもなく珊瑚の群生地に到着するとアナウンスが入った。僕がウミガメを見るのはここしかチャンスはない。


 ウミガメが幸運のシンボルなのは、沖縄ではなくハワイだったか、それとも日米共通の認識なのか──とにかく、この旅を良い思い出で締めくくるためには、ウミガメの存在が必要不可欠に思われた。


 海がより一段と深くなったような感覚があり、周辺の景色に立体感が増した。


「ほら。珊瑚礁」


 浅瀬では見ることの出来ない景色がそこにはあった。いつの間にか砂地はなくなり、辺り一面、全てが珊瑚になっていた。その上を、潜水艦はすべるように進む。


 どこまで行っても、どこまで見ても。まるで珊瑚の森──いや、山脈だった。


 スローモーションのように流れていく景色は、まるでヘリコプターで山の上を飛んでいるような気分になる。


「深い所はこんな風になっているんだ……」


 ため息と共に呟くと、視界の隅を薄茶色の何かが通り過ぎ、一瞬思考が停止する。


「今、何かがいなかった?」

「何かって、何よ」


 ちょうどその時、ヨゾラは反対側の窓から景色を眺めていた。


「いや、茶色いの……」

「え、ホント?」


 僕たちの会話が耳に入ったのか、にわかに狭い船内が色めきたつ。数秒のざわつきの後、誰かが『いた。左だ』と声を上げた。


 その場にいた全員の意識が左側の窓に集中し、謎の一体感が生まれていく。


 人間の願いを聞き入れたのかなんなのか、船体の影に入り込んでいたらしいウミガメはすうっと窓を横切りながら海面に浮上していった。


「ホントにいた……」


 水族館で見たことはあるが、実在するのだと妙な感慨があった。ヨゾラはほっとしたように胸を撫で下ろす。


 一度見つけた事で流れに乗ったのか、その後十数分間のクルーズの間に海藻を食んでいる個体を二匹見つける事ができた。



「あの時はタイミングが悪かったんだね」


 三十五分の海の旅を終え、僕は陸上に戻ってきた。居心地の悪さはなかったものの、やはり外の空気は美味しい。


 上手くいかなくても、少し方法や角度を変えてみることで、状況が好転することもある。忘れた頃に、探しているものが見つかる時もある。


 ウミガメは、そんな事を僕に教えてくれた様に思えた。


「楽しかった?」

「うん」


「それなら良かった。あたしも、結構面白かったよ。……カメ本体ってより、騒ぐのが楽しいんだろうね」


 確かに、それは彼女の言うとおりだった。僕はヨゾラと一緒に何かをして、目標を達成することに喜びを感じているのだ。


 ヨゾラはまだ時間があるので、展望台を案内してくれると言った。阿波連ビーチのすぐそばにあるそこは彼女いわく『超絶大人気スポット』らしかった。


 ビーチの東にある展望台は、少し張り出しているために見晴らしが非常に良いのだと言う。


 小高い丘と展望台の階段をのぼりきると、丸く弧を描いた海岸線と岬、そして珊瑚礁を抱く鮮やかなケラマブルーが現れた。


真っ白な海岸で寝転がっていたり海水浴を楽しんでいたりする人々でさえ、絵のように完璧な配置に見えてしまうほどに島の景色は非現実的で美しかった。


「自慢できるのって、このぐらいかな。あれがハナリジマ、右側が座間味、そして阿嘉……」


 ヨゾラが一つ一つ、島の名前を教えてくれる。ただの美しい景色でしかなかったものが、彼女の言葉によって、僕の中に刻みこまれていく。


「……せっかくだから、写真を撮ろうかな」


 スマートフォンはあるけれど、僕はこの島に来てから一枚も写真を撮っていなかった。あまり外部の記録端末に頼って、カメラ越しに島を、彼女を見るのはもったいない気がしていたのだ。


 しかし、もうそんな事は言っていられない。別れが迫っているのだ。もったいぶってはいられない。


「展望台を背景に、写真を撮っていい?」

「別に許可は取らなくても良いと思うけど」


「いや、景色と、ヨゾラの……」


「えー。あたしを写すの?」


 やだよ、とヨゾラは言った。僕は食い下がる。


 化粧してないとか、こんなダサい服は嫌だとか、ヨゾラはあれこれ言っていたが、一枚だけと言う約束で了承を取り付けることができた。


「SNSにアップしたり、他の人に見せたりしないでよ?」


 誰にも見せるもんか。この思いは、僕だけの物だから。


 心の中でだけ、そう返事をする。インターネットを通して全世界に公開したら、日本中から僕のようなしょうもない男が、ヨゾラに構ってほしさにこの島を訪れてしまうだろう事は、僕にとっての確定事項なのだった。


「うーん。海岸線が見えてないとぱっとしないから、あたしの位置はこの辺り……」


 ヨゾラは嫌々ながらも、親切な人なので写真の構図について真剣に考えてくれる。


「そのままでいいよ」

「そういうわけにもいかないでしょ」


 僕はスマートフォンの電源を入れ、彼女を画面におさめる。ややくたびれたTシャツに、飾り気のないショートパンツ。彼女はいつも同じだ。表情は……少し、ぎこちない。


「画像、加工して保存しておいて」


 手を加える必要性なんてどこにもないとしか、思えない。世界が最後の日に何をするかと問われたら、僕はきっとこの写真を眺めて終わりの日を過ごすと答えるだろう。


「……今日やる事、もうこれでおしまい」


 帰ろうか。


 ヨゾラの言葉に、僕は静かに頷いた。

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