第28話
一体何に気が付いたのだろうと、僕はそのままヨゾラの言葉を待った。問いかけなくても彼女はその続きを教えてくれるだろうことは、何となく彼女の表情から察する事ができた。
「あたしね……ハルト君を見たとき……なんでそう思ったのか、今でもわかんないんだけど。ママと同じことをすればいいんだって、頭の中にパッと浮かんだの。あたしはこの日を待っていたのかもしれない、って」
「……ママ?」
彼女がそう呼ぶ人物──それは、家を出ていなくなってしまった母親の事だろうか?
「そう。あたしとカイリのママ。この島出身で、パパを身代わりにここに閉じ込めて出て行った。ここはさ──箱庭みたいなもの。島の人は優しいよ。でも、それはあたしがかわいそうだから。あたしがママの分身として、置いていかれたから」
ヨゾラの唇からこぼれる言葉のすべてから、不穏で、陰鬱な空気を感じる。まるであたりの空気が夏から、あっという間に晩秋へと変わってしまったみたいだ。
「カイリと言うのは、あの写真に写っていた……」
「そう。あたしの弟。海に里山の里でカイリ」
やはりあの少年はヨゾラの弟だったのだ。単純に考えるならば、彼女の母親は息子「だけ」を連れて出て行ったのだろう。
「パパが東京からの移住者だって話は聞いたよね」
ヨゾラは手すりにさらに体重をかけたらしく、かすかにぎしっときしむ音がした。
「あたしのパパは二十年以上前に、非日常を求めてこの島と『民宿へんな』へやってきた」
「そこで看板娘として実家の手伝いをしていたママと意気投合して、この島に移住した。最初は良かった。ひいおばあちゃんは元気で、おじいちゃんとおばあちゃんもいたし、お父さんは頼りになる。あたしたちは完璧な家族だった」
あたしが小学校に上がる頃までは。ヨゾラはそう言って、ベランダから身を乗り出した。ぎくりとしたけれど、庭先で大学生たちが煙草を吸うために窓を開けたのを確認しただけのようだった。
「……ママは島から出たことがなかった。高校には行かずに、ずっとこの島にいたの。実家の手伝いをしたり、飲み屋さんで働いたり……だから島が嫌いだったはずはない。誰もがそう思っていた」
どうしてそうなったのか、今でも理由はわからないの。ヨゾラはそこで少し、言葉を選ぶためなのか押し黙った。
「でも、きっと……おそらくは。憧れを抑えることができなくなったの」
「……憧れ?」
「そう。おじいちゃんとおばあちゃんが死んで、自分を縛る力が弱くなった時。逆かな──ここを継ぐ存在になったと認識した時、人生これでいいのか、って──自分を見つめ直してしまったんだと思う」
「パパがママに、キラキラな外の世界の事を教えた。だから好きになったんだって言ってた、自分の知らない事を沢山知っていたから」
海まで行こうぜ!と明るい声がして、がやがやとした人々は闇にまぎれて坂をくだっていった。彼らは一人じゃないから、恐れなんて感じていないのだろう。
「……あの人たち、底抜けに明るいよねえ。うらやましい……。そんな憧れは、いつしか嫉妬に変わったの。向こうは島での人生を選んだ。でも、自分には選択肢がなかった、って」
ヨゾラ、それは君の妄想にすぎない──。僕はその言葉を紡ぐ事が出来なかった。真実は分からない。それを確認する術はなく、彼女が思うことが、彼女にとっての『事実』なのだ。
「本当に、何が起きたのか今でもわからないの。ママはカイリを連れて突然いなくなった。でもね、ハルト君──あなたには分かるでしょ。パパの気持ちも、ママの気持ちも、あたしよりは、きっと」
どこか遠くへ、まるで別世界のような美しい場所へ。都会の喧騒を忘れて、穏やかに暮らせる場所へ。
今の居場所が嫌だ。親に縛られて、言われた通りに生きて。これは本当の自分じゃない。ここではないどこかへ行ってみたい。
お互い遠くへ行きたい男女が出会って、ない者同士惹かれ合う。最初はただ本当に、それでよかったのだろう。
「パパはこの島を出て行けたけれど、あたしとひいおばあちゃんが居たからできなかった。そうしてママの帰りを待つうちにパパはこの島に完全に馴染んで、ひいおばあちゃんは那覇の施設に入って、あたしは一人になったパパを今更置いていけなくて──今に至る」
「別にどこかへ行きたい訳じゃない。でも、いつかはあたし一人。この島でこのまま──将来は、どうなるの? 台風が来て家が揺れるたびに、いつも思うの。そのうち全てが壊れてしまうんだって。だから──思った」
ヨゾラは僕の方を見た。こんな時でも、僕は彼女を美しいと思ってしまう。
「ママがここでパパを引き留めたように、ハルト君をこの島に閉じ込めてしまえばいいんだって。そうしたら、もう、どこにも行けないからね」
──居たかったら、いつまでも居てもいいよ。ヨゾラの言葉がリフレインする。
あたしの中にも、ママの血が流れている。だからそんなあくどい事を考えてしまったの。ヨゾラは苦しそうに言葉を絞り出す。僕はたまらなくなったけれど、手に持っていた麦茶の水筒を差し出すぐらいしかできる事がなかった。
「僕は……」
君が望むなら、ここにこのまま──そう口にしようとするのを、麦茶を飲み干したヨゾラは遮った。
「あたしはハルト君がうらやましかった。最初はかわいそうな子だと思ったの。でも、よく見ると全然違った。ああ、この人はあたしと違って──なんだかんだ言って自由なんだって」
この子は都会に住んでいて、キラキラな生活をしている。電車に乗るだけで色々な所に行けるし、習い事もできる。志望校に受かっても受からなくても、大学には行けるだろうし、そこでもっと楽しい事もある。仕事を選ぶ事ができる。就職に失敗してもまた探す事ができる。
「あたしさあ──バカだったけど、やってみたいと思うこと、結構あったよ。でも、家の事もあるし、ウチはお金持ちじゃないし。勉強について行けなくて親に怒られたなんて、本当にバカだとしか思えなかったよ。死ぬ訳じゃないし、もうちょっと頑張ってみればいいのにって」
彼女は言う。僕には無限の自由と、可能性があるのだと。
「別世界の人が沢山いるのは分かっている。あのお客さん達もそう。存在は認識している。でも彼らとは違うから、って自分を納得させる事はできていたの、今までは──ハルト君が来るまでは」
ヨゾラはふっと、闇を見上げて苦笑した。
「こんなに恵まれてるのに、自分には居場所がないみたいな顔しちゃって。スナック菓子をほしがる海鳥みたいに、ちょいちょいって手招きして、餌付けして……。捕まえて、ここに閉じ込めてもいいんじゃないかな? って」
僕は生まれた時から自分の人生が決められていると、選べる道はなく、進むか転がり落ちるかのどちらかでしかないのだと思っていた。でも彼女から見た僕はそうではなかった。
ヨゾラの声は涙声だけれど、僕は一緒に泣く事ができない。あまりに世界が──環境が違いすぎて、こんなに近くにいるのに、僕は彼女に共感する事ができないのだ。
つまらない、ありきたりの話をする事はできる。でも、それは心からの同調ではないし、僕なりにこれまで感じてきた惨めさをヨゾラが本当の意味で理解することはないだろう。
「お互いバカだね、本当に──でも、あたしはハルト君より、お姉さんだから」
風が強く、僕たちの間を分断するように吹き抜けた。煽られた前髪を振り払ってヨゾラの顔を見た時、彼女はいつも通りの顔に戻っていた。思わず、今までの話は全て僕の妄想だったのかと、瞬きをしてしまう。
「ほかの人に荷物を持ってもらったとしても──それが幸せに結びつかないって事はわかってる。ハルト君には東京でやる事がある。家族に必要とされてる。画面越しにハルト君の両親を見て思った──まだ、その辺に落ちてる流木みたいに、拾ってこの家に飾っちゃダメなんだって。あたしはあなたを引き留めてはいけないの」
だから、あたしはハルト君に東京へ帰ってほしい。
ヨゾラはそれでも、こんな思いを吐露しても、僕は東京へ帰るべきだと言う。それは遠慮ではない。先ほどまでの、息苦しくなるほどに屈折した感情を持ってしても、彼女の優しさが勝ったのだ。
何かを言おうと思ったけれど喉はかすれていて、先にヨゾラが視線を外した。
「……やば。メンヘラ。ふふっ。実はさっき、付き合いでビール飲んじゃった。お客さんのおごりだから。変な事言って、ごめんね」
ヨゾラは力なく笑い、下に降りていった。お酒を飲んだのは本当かもしれない。しかし、彼女が絡み上戸かどうかはそれこそ闇の中だ。
寝付けるわけもなく、布団の中で考える。考え続ける。
──僕にはまだ、東京でやるべき事があるのだろうか。
僕には出来る事が少ない。彼女に寄り添う事はできる。でも僕は無力だ。彼女が求めているのは物質的なものではないのだろうけれど、この島か、あるいは那覇にとどまったとしても、僕たちに待っているのは緩やかな滅びでしかないのかもしれない。
別々の環境で育った人間同士、相手のいいところが見えている間はいいけれど、くっついて生活しているうち様々な齟齬が出てくるのかもしれない。そんな不安と、人生で気持ち以上に大切なものがあるのだろうか、と言う感情がせめぎ合う。
僕は「人生の勉強」だけをしてここを去り、何食わぬ顔で次の妥協案を探していくのだろうか?
──そんな自分は、好きじゃない。
暗闇の中で目を凝らすと、木目の天井がまるで僕の気持ちを表すかのようにぐるぐると渦を巻いていた。
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