第17話
「アリスちゃんも最近は成宮くんに心を開いてきているみたいで安心したよ」
俺とアリスとはテーブルを挟んで向かい側のソファに座る真姫は、人の好さそうな笑みでそう言った。
「何言ってるんですか。わたしがこんなヘボ男に心を開くはずがないですよ。わたしの人間としての価値が下がるんでそういう言動は慎んでください」
「アリスちゃんはツンデレでかわいいね」
「はぁ?」
アリスは身を乗り出す勢いで真姫をきつく睨んだ。真姫のことが好きなんじゃなかったのか。その睨みもまたツンデレなのか。
「今日の標的はかなり強そうだから、亜魔人をもう一人連れていくことにしたよ」
「うぇ、あの人を呼ぶんですか」
アリスが顔を顰めて、露骨に嫌悪感を示す。
「なんだ、もう一人の亜魔人って」
「亜魔人同士が組んで任務をすることって基本的にないから、成宮くんは会ったことないよね。もうそろそろ来ると思うんだけど……」
と言って、真姫が部屋の壁掛け時計を見上げた時だった。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン!」
バン、と大きな音とともにドアが蹴り破られそうな勢いで開かれ、そこからすらりとした身長の高い銀髪の女性が現れた。
にやりと性悪そうに口角を吊り上げて、その長い銀髪を揺らめかせながら、女性は俺に首を向けた。
「キミが猫か。話は聞いてるぜ」
彼女は俺の双眸を穴が開くほど見つめた。俺もなんとなく目を逸らすことができずに、彼女の力強い碧眼を見つめ返す。その青い水晶体に反射して俺の顰め面が見えた。
「アタシはシャチだ。よろしく頼む」
彼女はまるでモデルがランウェイを歩くような、圧倒的な内側の自信を感じさせる足取りで俺に近づいてきて、その女性にしては少し大きい手を俺に差し伸べた。
「あ、ああ。よろしく……」
俺が手を取った瞬間に彼女の笑顔が深まり、彼女は嬉しそうに目を細める。俺は彼女の不思議な存在感に呆気にとられながらも、ゆっくりと首を真姫に向けた。
「……なぁ、シャチってどういうことだ」
「シャチってのは地球上の全生物の中で最強なんだ。地球上でシャチの天敵たりえるのは、唯一武器を持った人間だけだ。その他の生物であればシャチは絶対に負けない。だから、そのシャチの能力を持つ亜魔人であるアタシも、最強ってことだ。わかったか?」
横の真姫に向かって訊いたのに正面の彼女が答えてくれた。
「あ、ああ、シャチの亜魔人、ってことか」
俺が苦笑いで答えると、シャチは俺の手をもう一度強く握った。
「アタシのことはシャチって呼んでくれ、猫」
にっこりと笑う彼女の歯はギザギザに尖っていた。
「亜魔人が二人で任務にあたることはないと思う、というかないことを望むんだけど、まあ二人とも仲良くしてね」
「今回はアタシ一人で十分だと思うけどなァ」言いながら、シャチは真姫の隣にどかっと座る。「猫の亜魔人なんかの出る幕はないだろ」
アリスの、亜魔人は傲慢だ、という言葉が頭を過る。
シャチは俺の血液の能力について知らないのだろうか。
「まあまあ、正直あんまり無駄話をしてる場合じゃないんだよね。もうすぐ終電なくなっちゃうし」
「今日は映画館に行くんですよね」シャチにできるだけ目線を向けないようにしているアリスが言う。
「うん、映画館。場所はもうアリスちゃんに伝えてあるから、二人はそれについていって。わたしはもう寝るから、よろしくね」
真姫は淡々と穏やかにそう言って、欠伸を噛み殺しつつ立ち上がり、部屋を出て行った。
「じゃ、行きますか」
有栖川のその声に応じて、俺たち三人は同時に立ち上がった。
それから俺たちは三十分ほど電車に揺られ、ターミナル駅で降車する。深夜の人通りの少ない駅前を通り抜け、まだかろうじて煌々と光っているショッピングモールの前も通り過ぎて、その隣に立っている映画館に到着した。
まだレイトショーが上映されている時間のはずだが、館内入り口の自動ドアの先は真っ暗だった。
いや、真っ暗というより、真っ黒。
ガラスがムラなく黒く塗りつぶされているかのように、自動ドアの先が全く見えない。
「ていうか、自動ドアのくせに自動で開かないのな」
三人並んで自動ドアに立ち尽くしていたところ、シャチがぽつりと呟く。
「無理矢理こじ開けるしかないな」
「じゃあ、成宮さんお願いします」
「え、俺?」
「わたしは器物損壊罪で捕まりたくないので」
「アタシも」
隣の女子二人が冷めた目で俺を見つめる。
「器物損壊罪って、今までも色々壊したり殺したりしてるだろ……」
「面倒なので早くやってください」
俺は大きく息を吐きながら、取っ手の付いていないドアの隙間に指を入れ込む。そのまま思いっきり左側に体重をかけると、ぎぎぎぎ、と擦れてはいけないものが擦れるような嫌な音とともに、人が一人通れるほどの隙間を作り出すことができた。
「なんだ、普通に開けるんですね。亜魔人のくせに随分と平和的な」
「こんなのガラス割っちゃえば一発だろ。猫ってバカなんだな」
「だったら最初からお前らがやれよ……」
そんな軽口をたたきながら、シャチを先頭にして俺が最後尾で、縦に並んで映画館に入る。
映画館の中は、外から見た時と同様、真っ暗だった。アリスやシャチがどこにいるのかすら分からない。
「成宮さーん! こっちです!」
映画館に入った瞬間二人の姿を見失い、身動き一つとれずにいると、ひと際強く煌めく白い光が見えた。ので、とりあえずそこに向かう。そのそばにシャチもいた。
「スマホの明かりです。とりあえずはこれを使って先に進みましょう」
「……なぁ、なんで真っ暗なんだよ。停電か?」
「おそらく魔人の影響でしょうね」
とアリスが言った瞬間に後方から大きな物音が響いた。館内に鈍く重い音がこだまする。アリスは咄嗟にスマホの明かりを向ける。
さっき俺がこじ開けたはずの自動ドアが閉まっていた。
「……成宮さん、ちょっと調べてきてください」
言われる前に俺はドアへと動き出していた。ついさっきそうしたように自動ドアを手動でこじ開けようとしたが、どれほど体重をかけてもドアはびくともしなかった。
「チッ」という舌打ちと共に、シャチが自動ドアを蹴る。しかしシャチのキックはガラスがバウンドするように弾かれた。
「閉じ込められましたね」
アリスが落ち着き払った調子で言う。
「え、お、おい、大丈夫なのか?」
「魔人を無力化すればたぶん大丈夫でしょう。とにかく先に進みますよ」
「出入口を封鎖されたくらいでそんなビビんなよ、猫」
いや普通ビビるだろ、と思ったけれどこれ以上弱音を吐くとシャチに殺されそうなので、さすがに口をつぐんだ。
映画館内は廃墟のような様相になっていて、人の気配というものがまるでなかった。足音は俺たち三人のものしかなく、券売機の機器やポップコーンメーカー、壁の時計に至るまで何も稼働していなかった。館内の何もかもがしんと寝静まっている。
「空間を操作する魔人なんてのがいるのか」
この状況は、空間を操作する魔人がいる、としか説明できない。館内からスタッフや客を一人残らず追い出し、電気類を消灯させ、俺たちを閉じ込めた。魔人がこの映画館という空間をその手中に収め、俺たち三人を弄んでいるのだ。
「わたしは今日初めて出会いましたけど、まあ、ありえなくはないですよね。魔人の能力は何でもありですから」
アリスは売店のパンフレットをスマホの明かりで照らして物色しながら、片手間に答える。光を反射してパンフレットの俳優の瞳が不気味に光り、怖気が走る。
シャチは一人でポップコーン売り場のあたりを調べていた。
「成宮さんも一人でどこか調べに行ってきてくださいよ」
「……唯一人間であるアリスに危険が及んだら、まずいだろ」
「とりあえず今のところ危険はないので大丈夫ですよ。何かあったらすぐに大声を出すので」
「そ、そういうわけにもいかないだろ。魔人が奇襲を仕掛けてくる可能性だってゼロじゃない」
「いつまでもわたしに引っ付いていたら非効率です」
「効率とか、どうだっていいだろ。映画館なんてそんなに広くないんだし」
「この仕事は一分一秒が命取りになるって、わたし言いましたよね?」
「……ときにはその無駄にした一分一秒によって命が助かることもある」
そこでアリスはやっと、俺に顔を向けた。眉を顰めた、困惑顔だった。
「あの、さっきから何なんですか? さっさと一人で行ってくださいよ。しつこいですよ」
「…………い、いや、その……」
「何ですか?」
「苦手なんだ、暗い場所が。怖いんだよ」
言うと、アリスは信じられないものを見るような目で俺を見た。しかしすぐに苛立つような表情になって、俺の足を強く踏んだ。
「さっさと一人で行ってください。殺しますよ?」
ただの人間であるアリスに亜魔人である俺を殺すことはほぼ不可能だと頭ではわかっていても、俺は目の前のアリスの尋常ではない気迫に降伏せざるをえなかった。
「わ、わかったから。足を離してくれ」
俺は両手を挙げてアリスから離れ、アリスに背を向けて自分のスマホを取り出す。ホント使えねーなあのゴミクズ、という小声が背中から聞こえたが気にしない。
スマホの明かりを頼りに、小さな歩幅でおずおずと、俺はスクリーンのあるエリアに入る。赤い絨毯の敷かれた細長い廊下に、手前側から一番二番とスクリーンへと続く入り口が並んでおり、最奥は六番だった。俺はとりあえず順番通りに手前側の一番のスクリーンに入る。
伽藍とした劇場内も真っ暗で、スマホの光に照らされた白いスクリーンには何も映っていない。俺は足元を光で照らして調べながら、座席の間の階段を上っていく。そして、俺が最も後方の、壁際の座席に到達したときだった。
プツッ、と小さな機械音がして、劇場内が少し明るくなった。後ろを向くと、白いスクリーンが映写機の光を反射して光っていた。スクリーン上には黒い数字が映し出されている。最初は「5」だった数字が秒を刻んで「4」「3」「2」と変わっていく。俺は呆然として、立ったままそのスクリーンに見入っていた
いったい何が始まるのだろう。
やがてスクリーン上のカウントが「0」になり、一瞬劇場内が真っ暗になる。
ぷつり、とまた短い機械音が聞こえた後、スクリーン上には、ある女性の顔が浮かび上がった。
「は……ま、真姫?」
制服を着た真姫が スクリーンに映し出されていた。
赤幕を背景に、高校のブレザーを着た真姫が正面を向いて姿勢よく立っている。微笑んでいるようにも見えるし、ともすれば不機嫌そうにも見える、どちらともつかない不思議な表情をたたえていた。
「な、なんで真姫が……」
スクリーン上の真姫は黙ったままだった。静止画を映しているだけなのか、それとも映像の中の真姫が動いていないだけなのか、判別がつかない。
「……おい、なんでここに猫がいるんだよ」
女性の低い声が聞こえた。気づけば、スクリーンの真下で、映写機の光を反射してうっすらと煌めく銀髪を揺らしたシャチが、ポップコーンを片手にこちらを見上げていた。
「お前さっき、一番のスクリーンに入ったよな?」
「あ、ああ……」
シャチはポップコーンを口に放り込みながら、悠然と通路の階段を上ってくる。
「アタシは三番のスクリーンに入ったはずなんだ。なのになんで猫がここにいる?」
「……え?」
「猫、お前ワープする能力持ってるのか?」
「いや、猫の亜魔人がワープするわけないだろ……」
「じゃあ、この映画館はスクリーンひとつしか用意してねえのか」
そんなはずはない。おそらく魔人に空間を歪められていて、どの入口から入っても同じスクリーンに通じるように構造が変化しているのだろう。
そして、この上映されている真姫の映像も、魔人が意図的に俺たちに見せているものなのだろう。
シャチは壁際の座席の一つに座り、俺に目線で隣に座るように促した。
「一緒にこの映画見ようぜ」
ポップコーンを口の中で噛みながら、曖昧な呂律でシャチが言う。
「映画、なのか? これ……」
「なんでもいいだろ。どうせ閉じ込められててやることもないんだし」
俺はシャチの隣に座る。ポップコーンに手を伸ばそうとすると、即座に強く手を弾かれた。
「勝手にアタシのもン盗るんじゃねえよ」
シャチがこちらに目を向けないまま事も無げに言う。俺の手の甲には赤くくっきりとシャチに叩かれた跡が残っていた。
どれだけ食い意地張ってるんだよ、と俺が内心呆れていると、やっと、劇場のスピーカーがその役目を思い出したかのように震えだした。
それと同時に、正面の真姫も動き出す。
『皆さんごきげんよう。今日はわざわざ当映画館へご来館いただき誠にありがとうございます』
完全に真姫の声だった。スクリーン上の真姫が、真姫の声で、恭しい口調で言った。
「まあ、アタシらまだ一銭も金払ってないし、礼を言われる義理なんてないんだけどな」
「ちょっと一旦黙ってくれ」
『大変な失礼を承知の上で申し上げるのですが、おそらくお客様の中に、無限の魔人の心臓を所持している方がいらっしゃるかと存じます』
「なあ、無限の魔人ってなんだ?」
隣のシャチがくいくいと俺の袖を引っ張ってくる。
無限の魔人とは即ち。
あの黒猫のことだ。
まだ俺の精神の中に魂が残っているという、あの黒猫。その正体は自称無限の魔人だった。
しかし、なぜここで無限の魔人の話が出てくる?
あの黒猫は、俺に食われて死んでしまったとされているはずだ。魂がまだ生き残っていることは、他ならぬこの俺しか知らない。そもそもあの黒猫の正体だって、俺以外は知らないはずだ。真姫にしても、黒猫が無限の魔人であることなど知らないはず。
「…………」
『もし心当たりのある方がいらっしゃいましたら、いち早くわたくしにお申し付けくださいますよう、よろしくお願いいたします。それでは』
スクリーン上の真姫が腰を折って深々とお辞儀した。そのときに見えた頭頂部まで、俺の知っている真姫と全く同一だった。
そして、真姫は静止画のように動かなくなる。
「無限の魔人なんか初めて聞いたぞ」
「…………」
「おい猫。お前何か知ってるんじゃないのか?」
俺が黙ったまま考え込むようにしていると、シャチが俺の肩を強めに叩いた。
「……なぁ、そんなことより今は、なぜこの劇場のスクリーンに真姫の姿が上映されているのかを考えるべきじゃないか?」
「そんなことどうでもいいだろ」
「どうでもよくないだろ。あのスクリーンに真姫が映ったってことはだ。今この映画館を機能停止させて俺たちを閉じ込めている魔人が、真姫を知っていてなおかつ真姫が俺たちの共通の知人だということも知っているのかもしれないだろ」
「それがどうした」
「だとすれば、この魔人は俺たちに近しい人物なのかもしれない」
「……近しいっつったって、誰だよ」
「まあ一番ありそうなのは、あの組織の職員の中の誰かだろうな」
「いやでも、真姫がアタシらに、自分たちの仲間の魔人を殺せって命令しないだろ」
「人に危害を加えているのなら、仲間だろうが関係なく処理しなければならないんだろ」
シャチはうーんと唸って、顎に手を当てて考え出した。もっとも、まだ姿すら見えていない魔人について考察したところでまともな推論が立てられるはずもない。
上手く話を逸らせられたか、と思っていると、前方に人影を見つけた。
「無限の魔人って何ですか?」
チュロスを両手で三本持ったアリスが、立ったまま、スクリーン上の真姫を見つめて言った。
そのまま最も後方の席に座る俺たちのところまで、階段を軽やかに上ってやってきて、シャチの隣に座った。俺とアリスでシャチを挟むような形になる。
「今は無限の魔人のことなんてどうでもいいんだよ」と、シャチがアリスからチュロスを受け取りながら言う。
「はい、成宮さん」
「お、おう……。ありがとう」
停電している状況でどこからどうやってこのチュロスを調達してきたのだろうと疑問に思ったが、深くは聞かないことにする。
アリスは早速チュロスを咥えて、スクリーン上の真姫を見やる。
「わたしは無限の魔人の心臓なんか持ってませんけど」
「アタシだって持ってねえよ、そんなもン」
「…………」
「成宮さんは? 持ってるんですか?」
口の中で少し温かいチュロスを咀嚼しながら、俺は考える。
スクリーン上の真姫は俺の知っている本物の真姫とは別人だ。今日の標的である魔人の分身、と考えるのが自然だろう。
しかし、では、その魔人はなぜ自分の分身として真姫を選んだのか。俺たち三人の共通の知人を登場させることが目的なのか、それとも別の理由があるのか。
そもそもその魔人がなぜ無限の魔人について知っているのか。今から考えてみれば、中華料理屋で血液の魔人と相対したとき、黒猫はただの雑魚魔人として扱われていて、血液の魔人は黒猫の正体を知らないようだった。あの何でも知っていそうな真姫も、俺の中に無限の魔人の魂が残っていることには気づいていないように見える。それに、当人の黒猫でさえ、記憶を奪われたとか言って、自分自身の経歴について覚えていない様子だった。
ひとつ確かなのは、何者かが無限の魔人を、俺の中の魂を狙っているということ。
あの黒猫は、かつて実体を持つ魔人は血液の魔人と無限の魔人の二人だけだったと語った。血液の魔人は確かに血液という実体を持っている。無限の魔人の実体については杳として知れないが、少なくとも血液の魔人と無限の魔人が何かしら特別な存在であることは推測できる。
つまり、無限の魔人の心臓には何らかの特別な価値——こうして二人の亜魔人と一人の人間を映画館に閉じ込めてまで欲するほどの価値があるということだ。
「なぁ、今日の標的の魔人は、何て呼ばれてるんだ?」
「え? あぁ、死神の魔人、というらしいです」
死神。無限と同じくらい想像がつかない。
「強い、んだよな」
「ええ。強いから亜魔人が二人も同時に出動しているんですよ」
アリスはチュロスを齧りながら、いまいち回っていない呂律で答える。
「……なぁ、俺たち暢気にチュロスなんか食べてていいのか?」
「打てる手がないんで仕方ないですよ。館内はあらかた調べ終わったんですけど、脱出するための糸口は見つかりませんでした。そしてスクリーンはここ一つしかないみたいですし、ここの座席をひとつひとつを調べたところで何も出てきそうにないですし。たぶんわたしたちは、死神の魔人を倒すか、無限の魔人の心臓を差し出すかしないとここから出られませんね」
手前のシャチはポップコーンとチュロスを交互に食べて、常に口をもごもご動かしている。
仕事中だということを忘れていないだろうか。
「死神の魔人をさっさと倒すべきだろう。そもそもの任務の目的が、魔人を倒すことなんだから」
「その魔人がどこにもいないから困っているんですよ。無限の魔人の心臓っていうのが鍵なんですかね。何かのメタファーになってるとか」
と、そのときだった。
俺の左肩がそっと叩かれた。
気づかぬうちに、何者かが俺の隣に座っていた。
「違うよ。無限の魔人の心臓は、普通にそのまま無限の魔人の心臓のこと。キミたち三人の誰かが、無限の魔人の心臓を持っているはずだよ。つまり、一人嘘を吐いている人がいるね」
真姫だった。
スクリーン上の真姫と、そして俺たちが知っているあの真姫と寸分違わない真姫が、俺の隣に座っていた。
ブレザー制服の真姫は俺の肩に手を置いたままで、優しく微笑む。
「……お前が、死神の魔人か」
映写機の光によって明るくなっているとはいっても、それは隣の人の顔がうっすらと見える程度でしかなく、こちらに近づいてくる人影までは見えづらい。それに劇場内の床は足音が聞こえにくいつくりになっているため、魔人が近づいていたことに気付けなかった。
いや、前提が違うのか。死神は足でここまで近づいてきたのではなく、ワープしたとか。
空間を歪められるくらいだから、そんな能力があってもおかしくはない。
「違う違う。わたしは白川真姫だよ。キミたちの上司」
言いながら朗らかに笑う真姫の姿の輪郭が一瞬ブレる。その数瞬後に思い出したように空気の裂ける音が聞こえて、辺りの座席の一部がひしゃげた。
真姫の向こうにシャチの姿があった。
真姫が突進するシャチの攻撃を避けたらしい。
「そうそう、シャチの亜魔人はものすごくスピードが速いんだったね。そして破壊力も凄まじい。うん、とてもシンプルでわかりやすいね」
「あと、長く息を止めていられるっていうクッソ地味な能力もあるけどな」
シャチはもう二、三度攻撃を仕掛けた、ようだった。目視で確認できるレベルを数段階超えていて、シャチと魔人の間でどのような攻防が繰り広げられたのか全く視認できない。魔人が瞬時に攻撃を避けていることと、シャチが銀色の残像を生じさせながら動き回っていることしかわからない。
「無駄だよ。わたしは死神の魔人だよ? 中途半端な亜魔人如きが勝てるわけないじゃん」
「自分が魔人であることを認めましたね」
無表情のアリスが淡々と言う。
「別に隠すつもりはなかったの。ちょっとしたジョークだよ」
まるで擦り切れたビデオテープの映像のように真姫の姿はブレている。その周りを囲うように銀色が飛び回っている。周辺の座席は粉々に砕け、ここ一帯だけが平らになっていた。衝撃波で俺の前髪が揺れる。
「あー、もう騒がしいなぁ。話に集中できないじゃん」真姫は髪の毛先をくるくるいじりながら面倒そうに言った。そして、神妙な表情で瞑目して、掌を前に突き出した。
「どうせシャチは無限の魔人の心臓なんか持ってないでしょ。なんとなく、そういうの興味なさそうだし」
シャチの魔人の手が、一瞬だけ紫色に光った。
ふっと、地面が小さく揺れたような感覚がした。死神の魔人が目を開けるのと同時に、しんと劇場内が静まり返る。背筋が凍るほど急に静まる。
さっきまで座席を破壊していたシャチがいなくなっていた。
劇場内の暗闇に隠れているというわけでもなさそうだった。跡形もなく、一瞬にして、シャチが消えた。
攻撃を避ける必要がなくなり、死神の魔人の輪郭ははっきりとしている。
「さすがに鬱陶しいから異次元に送っておいた。たぶん死にはしないから安心して」
「い、異次元?」
「それで? キミたちのどちらが心臓を持っているの?」
「…………」
何が起こったんだ、今。
死神の魔人が掌を突き出しただけで、一瞬にしてシャチの姿が消えた。
一人の亜魔人が、一瞬にして、その質量を無にされた。
強いとは聞いていたけれど。
強い、とかそういうレベルじゃなくないか。
「ほら、はーやーくー。無限の魔人の心臓を差し出してよ。私はキミたちに危害を加えたいわけじゃないんだよ。そりゃあ、キミたちをおびき出すために一般人を数人ほど殺すことにはなっちゃったけど、別に私は人を殺すのが好きなわけじゃないんだ。魔人の心臓を差し出してくれれば、私はもう誰も殺さない」
真姫の姿をした死神の魔人は、シャチが破壊した座席の破片を蹴っ飛ばしながら、飄々と言う。
「……あなたはなぜ、無限の魔人の心臓が欲しいんですか」
おずおずと、アリスがそう訊いた。声が若干震えていた。さっき、シャチを一瞬で空間から消したのを目の当たりにして、さすがにビビっているのか。
「んー? 私っていうか、血液の魔人が欲しているんだよ」
「血液の魔人が?」
血液の魔人。人間の俺を殺した張本人。
「血液の魔人が、無限の能力を欲している。無限の能力を手に入れれば、血液の魔人は間違いなく魔人の中の王になれるからね」
魔人の中の王、とは。
そもそも魔人に序列なんか存在するのか?
「私が無限の魔人の心臓を手に入れれば、血液の魔人は私のことを贔屓してくれるらしいからさ。王に贔屓してもらえたら、これからかなり生きやすくなるかなぁと思って」
魔人が髪の毛先をくるくる回す。
「なんで、わたしたちがその心臓を持っていると思うんですか?」
「んー? だって、キミたちが一番多く魔人の魂を所有しているでしょ? だから、もしかしたら無限の魔人の心臓も持ってるかなー、と思ってね」
なんだ、俺が無限の魔人と接触していたことについては知らないのか。てっきり、何らかの超越的な能力でもって、俺の事情を全て掌握しているのかと思った。あの黒猫の正体が無限の魔人だとは、こいつも知らないらしい。
しかし、かといってほっと胸を撫でおろしている場合でもない。つまりこいつは確たる証拠もなく俺たちをここに閉じ込めて、無限の魔人の心臓を差し出すか、この場で死ぬかの選択を、理不尽にも迫ってきているのだ。
シャチは魔人の能力によって消えてしまった。死にはしないと言っていたが、それが本当なのかもわからない。次は俺かアリスのどちらかが消されるかもしれない。
「まあ、キミたちの二人とも心臓を持っていなかったら、もう殺すしかないんだけどね」
無限の魔人が、足音も立てずにゆっくりと、こちらに近づいてくる。
「……成宮さん」
アリスに小声で囁かれる。俺はナイフを取り出す。
「んー、どっちが持ってるのかなぁ。なんかそっちの男のほうは猫だし弱そうだし、持ってなさそうだね」
俺がナイフで、ぬるりとした感触と共に、手首の上でナイフを滑らせたときだった。
「そこの女の子と二人っきりで話したいから、どっか行っといてよ」
俺の視界が紫色で埋め尽くされる。
地面が一回転したような感覚と共に、強烈な酔いに襲われる。アリスの叫び声が歪んで聞こえて、地面に膝をつこうとしたがすり抜ける。ひたすら奈落へと落ちていくような心地がした。
世界の終わりを感じる。
因果律や物理法則がぼろぼろと崩れていく音が聞こえる。
目を開けても閉じても、視界は何一つ変化しない。
脳の奥が冷たくなっていく。
ああ、死んだかもな、俺。
と考えた瞬間に、俺は地面にたたきつけられた。
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