ろくろくび(二)

 佐七が両の腕を目一杯に伸ばして、滝を受け止めていた。滝が佐七を間近で見たのはこれが初めてだった。

「……お、おまえさんは……」

佐吉さん、と恨めしげに言いかけた口を噤んだ。佐吉にしては幼すぎると気がついたのだ。けれどその顔立ちは見知ったもので、見覚えがないもので戸惑って、少し迷って、

「……もしや、ねえ、おまえは佐七なの? かわいい私の佐七なの?」

ようやく、弱々しい声が溢れた。滝は確認するように、かつて失ったはずの我が子に手を伸ばしていた。

「うん、おっかさん、俺は佐七だよ」

佐七はその手をとって、うんと優しい声で返事をした。やっと会えた、と佐七は母を抱きしめていた。

「おっかさん、遅くなってすまねえ」

「ああ、佐七、佐七だったの」

滝の瞳から、濁った色が消えた。代わりに溢れるのは透明な雫が大きくひとつ、ふたつ。滝は佐七、ともう一度名を呼んだ。

「お前はもうこんなに大きくなってたのね」

「うん、おっかさんは聞いていたとおりだ。すごく綺麗な人だっておとっつぁんから聞かされてたんだぜ」

「──ああ、ずっと二人に会いたかった、ずっとずっとずっと、会いたかった、それだけだったのよ──」

「やっと会えた、俺もずうっと会いたかった。おとっつぁんが死んで、おっかさんのことを知って、それから随分と探したよ」

「……死んだ?」

滝の目が見開かれた。死んだ? あの人が? 憎らしくて愛おしいあの人が、突然来なくなったその理由わけは。

 滝の顔がさっと青くなって、佐七は苦しげにつぶやいた。

「……ああ、やっぱり、知らなかったんだ」

「うそ、そんな、私の佐吉さんは、……ああ、ああ、あんたのおとっつぁんは、もう死んでしまったというの……」

「もう六年も七年も前の話だ。おっかさんに悪かったと、会いたいと、ずうっと言っていたよ。約束をたがえて悪かったと、会いに行けずすまないと、ずうっと死ぬまで詫びていた。……最後まで足を洗えなかったから」

「あの人は……そうなの……」

滝の双眸そうぼうからほろりと雫がこぼれ落ちた。

「私も会いたかったわ。謝りたかった。こんなことになる前に、あなたが逝ってしまう前に、会いたかった、会いたかったの、もっとたくさん話をしたかったのよ、佐吉さん……」

ほろほろ、はらはら、涙が地面に黒い染みを作る。瞳の奥で黒々とうつろに、それでいて爛々と輝いていた光が収まった。

 その代わり、白い肌がまだら模様に染まり始める。赤紫、青紫──だんだんと縊死いしした者の体を成す。佐七は青い顔で母を抱きしめた。

「お、おっかさん! ああ、待ってくれ。なあ、何が起きてるんだ、おっかさんは一体なぜ」

「──わだかまりが解け、時が流れた」

夜四郎は静かに呟いた。

「川副滝は既に死に此方の──この世の存在ではない。……それは佐七殿も知っていたはずだ。先の姿も見たでしょう」

──確かに、見た。たまも、夜四郎も、佐七も、轆轤首の姿を確かに見た。

「なんてことだ、なんてことだ、俺は間に合わなかったのか」

 佐七はむせび泣くほか、なかった。

「なあ、おっかさんは戻らないのか」

泣きながら、夜四郎に問うた。夜四郎は静かにかぶりを振る。

「もうどうにもならんのか」

「既に──とうの昔にこの世のものではなくなっておられる」

「斬らないといけないのか」

「救う為に斬らねばならぬ」

「夜四郎殿よ、どうしても斬らないといけないのか」

「──ああ」

「くそ……ああ、なんでだ、折角会えたのに、やっと手を掴めたのに」

淡々と、粛々と、夜四郎は言葉を紡ぐ。

「そこに在られるのは、とうに儚くなった命なんだ、佐七殿」

「わかってる、ちゃんと話を聞いてきた。だから来た。来いと夜四郎殿が言った」

「ならば分かってくれ」

「くそ……」

噛んだ下唇から血がにじむ。それを、柔らかく拭う白い手──。

 滝が優しい目で佐七を見つめていた。その瞳はたまも、夜四郎も捉えずに、ただただ真っ直ぐに佐七だけを見つめていた。

「きっと最初からこうなる道だったのね」

そう呟いた。

「ああ、見られてしまった。可愛い子に、愛しい人に……この姿を見られてしまった、ああ、恨めしい、恥ずかしい、消えてしまいたい」

「恥ずかしいもんか、どんな姿だっておっかさんは綺麗だ。美人だ。おとっつぁんは嘘なんかついてなかったんだな」

「佐七、本当に大きくなった……」

ただ見守りたかった。貴方が世界を知っていく姿を。言葉を学び、誰かを呼ぶのを。当たり前にそんな幸せを滝は夢見ていた。

「ごめんなさい」

「違う、違う、ごめんは俺の言葉だよ、やめてくれよ、おっかさん」

「ありがとうね、私に会いにきてくれて」

「ありがとうも俺の……」

「会えてよかったわ、あなたを見て、私、やっと……やっと、眠れそうだと思えた」

佐七は咽び泣いていた。佐七も同じ夢を見ていた。おとっつぁんがいて、おっかさんがいて、三人で慎ましいながらも幸せに暮らす、そんな夢を。叶わなくなったそんな夢を、二人は──きっと三人とも、別々に見ていたのだ。

 子供をあやすように滝は佐七の背中を力無く撫でていた。段々とその動きも緩慢かんまんなものになっていく。

 長く、息を吐いた。

「あなた」

そこでようやく滝は夜四郎とたまを見た。

「俺かな」

「ええ──優しいおたまちゃんの連れてきた、恐ろしいあなたのことよ」

「なんでしょう」

「せめて優しく斬ってくださいな」

「……」

「ねえ、あなたはその為に来たのでしょう。聞いているの、妖を葬送おくる辻斬り紛いの男がいるのですって」

あなたのことでしょう、と呟いた声はか細い。轆轤首だった時には爛々としていた瞳にも光はない。まるで、自分でなにもかも放棄したかのようだった。既にこの世の命ではない。妖に転じて、その存在さえも蝋燭ろうそくの灯火のようにゆらめいていた。

「──ええ。そう頼まれてます」

「……おたまちゃんもごめんなさいね」

会えなかったこと。何も言わずに消えたこと。最後に怖くしてしまったこと。たまが何かを返す前に、滝はまた視線を息子に戻していた。

 別れの時間だと滝が佐七を軽く押した。油断していた佐七は尻餅をつく。

「もっと早くにあなたを抱きしめてあげたかった」

ごめんね、ごめんね────そう言って滝は目を閉じた。銀色の光が応えて、


 ────風が鳴いた。


 夜四郎の刀がお滝の影を斬っていた。

 あの晩のようにぶしゅりと血が噴き出ることも、その長い長い首が地に落ちることもない。

 斬ったのは、彼女を括った太い縄の影。滝をこの世に縛り付けていた、歪な縄だけが斬られていた。

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