ろくろくび(一)

 たまは走っている。

 隣町からの帰り道だった。陽が傾いて既に逢魔時に──夜四郎と初めて会ったあの時間に差し掛かっている。

 隣町のどこにも、滝の生家である小間物屋はなかった。人のいない壊れかけた家があって、寂しげな松の木があって、そこだけいやにどんよりとしていた。町の人が言うには随分と前に店ごと引っ越していったらしい。後の土地は買い手は既についていて、その頃にはこの松の木も無くなるだろうと言っていた。それでも、誰もたまに滝のことは教えてくれなかった。誰も彼もが昔おかみさんたちから聞いたような、ぼんやりと霞みがかったような話だけを聞かせてくれるのである。

 その後、滝の長屋にも行った。木戸番小屋にも隣の長屋にも、今日も誰もいなかった。滝の部屋にも人はいなかった。ならばと走って、佐七の住む長屋に差し掛かった時である。

 女が暗闇に目を凝らして立っていた。

 女はじいっと何かを探している。何かを待っている。何時間もそうしてきたかのようで、地蔵みたいに微動だにしなかった。

 その影が風に揺れていた。

「お、お滝さん」

足を止めて、震える声で呼んだ。

「お滝姉さん!」

光る目がこちらに向けられる。既に人のそれではなく、まるで獣のようなそれに思わず身震いした。

「おたまちゃん?」

振り返る時に、ぽきん、と音が鳴った。厭な音が響いた。

「お滝さん、何を見ていたんですか」

それでもたまは息を吐いて、真っ直ぐに滝を見た。

「そこに、あの人はいません」

どうかこれで終わってくれとたまは願った。今回の騒動が全部たまの思い込みで、夜四郎の読みが的外れで、「あの人ってなあに、なんのこと」なんて滝が笑ってくれるのを。滝はたまたまここに来たんだと、そう思いたかった。

 けれど滝はあやしく笑うだけである。その瞳に今までにない色が浮かぶ。

「なんでかしら。ねえ、今夜ばかりは会いたくなかったのに。一体若い娘がこんな時間にどうしたの」

お滝さん、と声にならずに呼びかける。影は揺れる、歪む、そして合わせるように女の形が変わっていく。

「ええ、今だけは会いたくなかった。見られたくなどなかった。あなたは本当に私の愛しい子だったのよ、それは本当なの。何もかも片付いたら、その後なら、幸せにあなたと会えたのに。あなたを私の子供として、生きることだってできたのに」

 ごきん、と骨が軋む。

 ぐりん、と音が鳴った。

 ぶちゅり、何かが千切れた。

 骨と肉が変形する歪な音が静かな町に響いていた。音がするたびに滝の首から上が音と共に歪んで、曲がって、次第に伸びていく。恨めしげな女の生白い顔が、みみずのような長い首を揺らして夜闇に浮いた。


 ──ああ、轆轤首ろくろくび


 絵草紙で見たことのある姿に、優しい、美しいその人は転じていた。髪を振り乱して、天高くからぎょろりとした目玉が光って、牙のような歯の隙間から白い煙が立ち上る。たまの知っている人はそこにはいなかった。


 ──いなかったのは、はじめから?


 たまはひゅうっと息を吸い込んで、それからあの辻へ向かい走り出した。無論滝も追いかける。

「待て、待て! 逃がさないわ! 愛しい子、可愛い子、けれどお前は私の姿を見たのだから」

何がおかしいのか、けたけたと笑い声を上げる。その声はやっぱり滝のそれで、ひどく懐かしくて、たまは泣きたくなってしまった。

「私だってお滝さんのこと、一等好きだったのよ。話しているとずうっと楽しかったもの、この前久しぶりに会えた時だって嬉しかったもの」

「それなら止まって話しましょうよ、ねえ」

なまめかしい声にぞわりと粟立った。

 走る、走る、たまは必死で足を動かすのだが、通りをどれだけ過ぎても一向に距離を広げられない。しかもあちらは首が伸びるのだ。いつ噛みつかれてもおかしくない。

「ああ、食いたくないわ、食いたくない。けれどね、おたまちゃんを食えば、少しは力が出るでしょう、そうしたらあの男を探せるやも知れぬでしょう、もしかしたらもう少し此方の世に干渉できるようになるやも知れぬでしょう。あの日からうまくいかないのよ」

「嫌だよう、嫌だよう」

「大丈夫よ、大丈夫、怖がらないで。平気よ、すぐ終わらせてしまうわ」

──ああ、ああ、大好きな人が本当に妖になってしまった。

 けれども追ってくる現実は消えてなくならなくて、いくら好きな人でも食べられたくなどなくて、たまは必死に足を動かした。夜四郎なら、夜四郎ならば助けてくれるだろうか。たまも、滝も、────。

 夜の町を駆け抜ける。あと少しで追いつかれそうだと、身体が悲鳴をあげる。

「──よく来た」

だからだろうか。その声を聞いた時、たまがどれほど安堵したことか。かねて話してた通り、たまは勢いよく

 辻には夜四郎が抜き身の刀を手に待っていた。


 ──迅、と風が唸る。


 首か──否、はらりと舞ったのは滝の髪だった。次いでからりと音を立てて簪が落ちる。直前で首を引っ込めた滝は恨めしげにたまを見た。

「ああ、かわいいたま! おたま! お前騙したのね」

「元のお滝姉さんに戻ってほしいの」

「元も何もあるものか、お前の知る私も、この私もどちらもお滝なのに」

口の中の赤色が、いやに鮮やかに見えた。

「お前は誰? あの人の差金? ああ、あの人を使っていた頭領か」

「さてな」

「恨めしい、浅ましい! 来ないだけでは飽き足らず私を殺せととうとうあの人が言ったのね、そうなのね」

ぎょろりとお滝が夜四郎を見た。夜四郎は顔色ひとつ変えない。

「相知らぬな」

「嘘を吐け、そこなおたまから聞いているのよ、団子屋に繁々と通う男を」

「生憎と人違いだ」

「今度は可愛いたまにまで手を出すと言うの。私が居ながら、私を捨てて、またしても!」

「全く、人の話を聞かないひとだ」

夜四郎はぶん、と大きく刀を振るった。何もない、何もないと思っていたが、その刃は何かに当たった。

 簪だった。

 先の研ぎ澄まされた簪が無数に宙に浮いていた。めらめらと怪しげな炎を纏って見えるのは、たまの恐怖心からか。それが夜四郎の喉元のどもと狙って飛び回る。夜四郎はそれを叩き落としたのだ。

「話の途中だぜ、別嬪べっぴんさんよ」

「ああ、惜しかった」

もう少しでその子共々針山だったのに──ぞっとするほど優しい声で紡がれる。

「そんなに恨めしいか。死してなお現世に留まって、お前を慕う娘を手にかけようとするくらい恨めしいのか」

「恨めしや、ああ、恨めしいともさ!」

滝が叫んで、また夜四郎が刀を振るう。鋭い音がして簪が飛び散る。風が鳴って、それは夜四郎の刀なのか、お滝がたまを狙って投げてくる簪なのか。

 夜四郎が駆け出して、すかさずたまは物陰に転がり込んだ。

 幾度も銀色の軌跡が月明かりに描かれるのだが、ぐねりぐねりと白蛇のように滝の首は避ける。身体は闇に溶けてしまって分からない。

──夜四郎さま?

夜四郎は飛んでくる簪を落とす。巻きつこうとした首を狙う。けれど深追いはしない。滝の攻撃をのらりくらりと躱して、たまから注意を逸らしながら、夜四郎は待っていた。約束は守る男だと、そう言っていた。


 不意に雲が晴れた。


 突然夜四郎は身を低くして加速した。

 腰に引っ提げていた筈の鞘を手に振りかぶり、力一杯に滝の身体に叩きつける。次いで刀を返し峰で打ち──たとえ妖になっていたとしても、突然金剛の身体になるわけでもない。元は女子の身体だ、夜四郎の一打で簡単に吹っ飛んだ。

 苦しげに滝が息を吐く。

 夜四郎が刀を持ち直す。

 夜を駆ける足音が響く。

 滝のその身が地面に転がる寸前、駆けて来た男が手を伸ばして滝を抱え込んだ。間に合った──そんな声が降ってきて、来るべき衝撃が来なかったことを訝しんで、滝は薄目を開けてその男を見上げた。

 見上げて────固まった。


 そこにいたのは、佐七だった。

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