其ノ一『猟奇事件の暗影に』①
二〇六〇年・十一月十四日――
莫大な予算と国財を投げ打った政府の試み――高度なICTに支えられた"鉄壁の
その一端を担うのは、日昇国の最東北に位置する第二ICT都市『ルーナシティ』である。
温室で育った豊かな自然に、欧風の美しい街並み。
古風な景観へ器用に融け込んだ交通・通信インフラの充実性は、市街の豊かさと国の発展を匂わせる。
しかし、八年目の秋を迎えたルーナシティは平和でありながらも、活き活きとした色彩に欠けて見える。
「(懐かしい夢を見ていた気がする)」
久遠へ置きざりにした朧げな記憶の断片。
清らかな白花から甘く匂い立つような優しさ。
それでいて切ない疼きに胸の奥が波打つ。
花の香りは鮮明だが、その名はあやふやで思い出せない感覚と似ている。
秋空に向かってコスモスが微笑む花壇に囲まれた一軒の高層マンション。
中階の一室に住む一人の若い"女性"は、蒼然とした街並みを窓硝子越しに眺めながら物思いに耽る。
今年で二十四歳の秋を迎える『
彼女は類稀なる才気に溢れたエリートとして、職場では周囲に一目置かれる存在だ。
一見華奢で儚げな美貌に反し、蛍は男性にも引けを取らない武術を嗜み、抜群の運動神経を誇る。
さらに歴代最優秀の成績で採用試験に合格し、合理的で即断に立ち回る怜悧な知性も持つ。
しかし、非の打ち所がないエリートの心には、正体不明の空虚感と焦燥に|燻(くすぶ》っている。
この数年の間は常にそんな調子だ。
もっと別の明快な表現をすれば――いつも、蛍は"何か"が欠けている。
超難関試験を
新人で数少ない女警察官でありながら、周囲の羨望や風当たりをものともせずに任務へ勤しみ、多くの功績を讃えられても。
どこか心此処に在らずな蛍の瞳は、氷のように冷え渡っている。
それでも蛍は艶やかな
普段の蛍であれば、儚げに澄んだ瞳が覚醒した時点で即座に体を起こす。
睡魔を知らない機械さながらの機敏さで、身支度と出勤の準備を整えるはず――が、今日に限っては違った。
"妙な夢"のせいか、それとも昨夜の"行為"のせいか、珍しく全身は怠い。蛍は頭を抱えながら自嘲した。
昨夜の抱擁による甘い軋みを鳴らす体に鞭打って、緩慢な動きで起き上がろうとした。
「おはよう、蛍。珍しいな。お前がまだ寝ていたとは。珈琲飲むか?」
森緑色の布団を纏ったまま呆けていた蛍を迎えたのは、同棲中の恋人・『
清潔で整然とした光の短髪を視界に捉えると、蛍の心は自然と和む。
光の髪は黒い柴犬のように手触りが柔らかくて心地よい。
誠実さが美として模られた精悍な顔立ち。
硬派な印象を与えるムスッと固く結ばれた端正な唇に、嘘偽りのない真っ直ぐな眼差し。
不愛想な青年らしい光の顔と佇まいを見ていると、蛍は心が澄み渡るような安堵に満たされる。
虚ろに渇いていた蛍の心へ、日向溶けの雪水さながら温かな潤いが染み渡ったのはここ一年最近――きっと、"光の存在"が影響している。
「おはよう、光。いただくわ。ありがとう。ちょっとね……」
寡黙、厳しくて怖そう、不愛想。
光と初めて顔を合わせた多数の人間が抱く印象だ。
実際の彼は、確かにぶっきらぼうな雰囲気かつ、生真面目で厳しい言動も目立つ。
一方でいかに難航する任務にも挫けずにやり遂げる正義感と忍耐強さ、犯罪者を含むいかなる相手にも真摯に向き合う誠実さを持つ"立派な刑事官"だ。
「大丈夫か? 怖い夢でも見たのか。それとも、昨夜は無理をさせてしまったか」
こんな何気ない台詞からも、光の不器用な優しさを垣間見れた。
光から"告白"を受けた蛍が、彼と付き合い初めてから一年以上経つ。
『ここに来てから、お前のことがずっと気になっていた。好きだ。どうか、俺と付き合ってほしい』
まるで台本の棒読みのように抑揚のない告白の常套句。
同僚であり、刑事歴は一年以上先輩でもある光からの思わぬ告白。
当時の蛍にとっては初めてのことで戸惑いもした。
けれど、光の緊張に強張った表情、居た堪れなさに耐えてこちらを真っ直ぐ見つめる瞳の色から、彼の精一杯の勇気と不器用な愛情は伝わった。
二人の時間を過ごしていく内に、蛍は光の真面目で不器用な心優しい人柄に惹かれた。
漠然とした空虚が広がっていた蛍の心には、光との穏やかな同棲生活もあって、温かな彩りを取り戻しつつある気がした。
真面目で誠実な光のことだ。
今後の人生を蛍と共に歩みたい。
そんな風に"将来への誓い"についても、真剣に考えてくれていることは察しに容易い。
ただし、時間と
蛍は光を尊重したいし、彼にならいつ求められても構わない。
「ううん、そうじゃないの。少しだけ、懐かしい夢を見ていたの。内容は忘れちゃったけど。」
恋人である光もまた、太陽のような気持ちを胸に燃やして"蛍"を優しく見つめる。
強靭な筋力を秘めた華奢な体躯。
繊細そうに息づく肩で揺れる濡れ烏の髪は、無意識に触れたくなるほど美しくて柔らかい。
鉱石を削ったような白い顔と端麗な目鼻立ち。
薄紅色の花びらみたいな唇。
氷人形さながら均整のとれた肢体からすらりと伸びる四肢。
しかし、危険対応時の蛍のは、大地から空へ舞う黒鳥さながら流麗に動く。
何よりも周囲を惹きつけてやまないのは、彼女の"瞳"だ。
黒水晶に澄んだ瞳には、少女のように儚げな可憐さ、女の艶やかな悲哀が溶け合う。
我ながら陳腐で大袈裟な表現だ。
しかし、そのくらい蛍の全ては比類なき美しさと才気に香り立つ。
「そうか、ならいい。朝食は俺が準備した。ゆっくり起きたらいい」
蛍を見下ろすのは、ぶっきらぼうで優しい双眸。
しかし、その奥には温かなものばかりではなく光自身の"不安"も、醜く浅ましい感情もあり、蛍はどこまで見透かしているのか。
「ありがとう、光。じゃあ、お言葉に甘えて」
普段はそんなことを微塵も思わせない笑顔で彼女なりに甘えてくれる瞬間に限り、光の不安は杞憂だと安心できる。
光は蛍の艶やかな黒髪を雑に撫でる。
そっと触れるような口付けをしてから、何事もなかったかのように足速に部屋を出た。
光なりの照れ隠しなのは一目瞭然。
清々しい目覚めを喚起させる珈琲のほろ苦い芳香。
無骨な手の温もりと優しい口付けの余韻。
蛍は心が満ち足りていく中で身支度を整え始めた。
「ニュース、点けてもいいか?」
「うん、私も見たい」
自治体から派遣される宅配ロボットの朝食セットは、既に光が食卓に並べてくれた。
芳しいバターと甘く溶け合うメープルシロップのフレンチトーストにチーズ目玉焼き。
瑞々しくシャキッとしたレタスサラダ。
椅子に腰掛けている光は、寛いだ様子で熱い珈琲を胃へ注ぎこむ。
不意に目の合った蛍が微笑むと、光は照れ隠しからか、慣れた片手動作でリモコンを操作した。
紙のように薄いテレビは淡々とした機械音と共に点滅する。
しかし、液晶画面に浮かんだ"不穏な
『福祉省・子ども若者部門の総大臣が変死体で発見~猟奇殺人事件の行方は?~』
日昇国の政府内に属する幾つかの省庁。
その中の複数部門で枝分かれした機関は、主に経済安定から国民の生活保障、環境保護等を担う。
『福祉省』は、国民の健やかな生活の保障、その脅威となるあらゆる事故や危険に対応する計画と施策に携わる。
さらにそこから、子ども・若者部門に高齢者部門、医療保健部門、救貧部門、一般生活部門へと細分化している。
十一月一日のルーナシティ・ニュームーン区の公園にて、福祉省の子ども若者部門を統べる「
「……ところで、犯人の正体と行方は掴めると思う? 確か、あなたの所属する葉月班の案件よね?」
「否、今は鑑識部による現場検証の結果待ちの只中だ。俺達も疑わしい『朧月』と場所を探ってはいるが、どいつも『白月』ばかりだ。足掛かりすら未だ掴めない」
大臣殺害事件は、実は光のいる葉月班の所轄だ。事件捜査の進捗状況を訊かれた光は、苦々しい表情を浮かべた。事件の凄惨さに、光は内心
冷徹に聞こえる光の声には、強い悔しさと怒りが滲み出ている。
ちなみに、二人の間で交わされた『月の言葉』は、彼らの職場・ルーナシティ警察で使用される独自の隠語だ。
事件と捜査に関する情報管理と
『朧月』は被疑者や手がかり。
『白月』は無実らしき被疑者。
そして『黒月』は証拠や逮捕、送検によってほぼ"黒"と断定された真犯人。
「そう。それにしても、嫌な事件ね」
「まったくだ。これほど惨い行為を為せる『黒月』の人間性を疑うぜ」
苦々しい口ぶりから、事件の捜査が難航していることは容易に理解した。
光の胸に燻る憤慨と悔しさを冷静に受け止める蛍は、己の予感が的中するのを感じた。
蛍と光が所持する警察専用の携帯通信機器・通称『
夜色に統一された手のひらサイズの通信機器の画面を、二人は秒速でタップした。
通信機の小さな灯りから虚空へ照射された、
二人は食器もそのままで、即座に自宅マンションを出た。
*
漆黒で首から爪先を覆うタイツの上に、真っ黒な
定まった線路と時刻に従って、地下を這い回る"鋼鉄の大蛇の腸"へ二人は乗り込む。
ルーナシティでは地下に高速電鉄道、空中には
シティ全体のICT化に加え、中心都市を「どこでも、いつでも、誰もが、短時間で」行き来できる高速交通インフラも整備された。
本来は車で三十分かかる職場も、わずか数分で到着できる。
交通技術の発展によって、余分な自動車と道路の縮小と撤去は為され、交通事故も"ほぼゼロ"と化した。
ただし、最先端技術によって生まれた"完璧な平和と秩序"を彩る理想都市――その中枢で暮らす人間にしか垣間見れない"暗影"も、二人は知り尽くしている。
職場の玄関口に着いた二人は受付認証機に身分証明たるIDカードの情報画面をかざす。
認証が完了すると同時に、二人は俊敏かつ粛然とした足取りで事務所へ向かった。
『刑事部門』と彫られた灰銀色の合金扉。
入り口横に設置された認証パネルには、警察端末に登録された警察証をかざす。
職場に行くだけで、複雑なのか効率的なのか時折首を傾げたくなる手順を経て、二人は事務所へ足を踏み入れた。
「刑事部・霜月班。蛍・櫻井。ただ今到着しました」
「刑事・葉月班。光・藤堂。ただ今到着しました」
蛍と光の職業をそのまま象徴する『ルーナ警察署本部』の建物内にある刑事部の事務所。
二人は共にルーナシティの治安を守る「警察官」だ。
二人の粛然としたあいさつが、二十席のデスクが並ぶ事務所へ響き渡った後、"一人の刑事官"は飄然と姿を現した。
「よお、お疲れさん! 二人共! 相変わらず早いなぁ!」
「おはようございます。黒沢刑事官。珍しいですね、あなたが先にいるなんて」
おそろいで出勤した蛍と光を気易く迎えたのは、同僚の『
蛍にとっては先輩、光にとっては警察学校からの同期で"親友"に当たる。
軽やかなモヒカンスタイルに整った眩い金髪。
粗野で軽薄な雰囲気を裏切らないハスキーボイス。
旧時代であれば、金髪とゆるゆるな襟とネクタイの時点で
派手な見た目も中身も気さくなチンピラそのもの。
しかし、こう見えても警察官歴は数年超えの、かなりの"やり手"らしい。
黒沢が現場で発揮する"野性並み"と一目置かれる
警察官とは、基本的に理屈で事件に取り組む。しかし、黒沢は型破りな視点で現場や犯人の思考を分析する直感力に富み、難事件の手がかりや犯人の特定にも貢献してきた。
ただし、非協調的で無礼、軽薄な言動に加え、計画を無視した"猪突猛進さ"でしばしば現場を掻き回す点を除けば頼もしいのだが。
周りもだけでなく、親友である光もまた黒沢の奔放さに頭を抱える。
「お前な。私語は慎めって、いつも言われているだろ? まったく」
「まあまあ! そう堅くなりなさんな二人共! 俺達の仲だろ? 真面目すぎなんだよ、光! なあ? 蛍。」
肩を竦めて笑う黒沢に光と蛍は溜息を呑み込んだ。しかし、これでも蛍は恋人の親友、同僚としても頼りになる黒沢に心を置いている。
黒沢も同様に、蛍を生真面目な妹分のように親しく接してくる。
「ここは警察署で今は勤務中。つまり、名前呼びは慎んだほうがいいかと。黒沢刑事官」
「はいはい。ったく、蛍も相変わらずだなあ。俺の目は間違いなかった。お前らお似合いの"夫婦"になるぜ」
「ばっ! お前なあ!」
蛍へ灯す光の恋心に逸早く気付いた黒沢こそが、二人の仲を取り持った存在だ。
黒沢に背中を押された光が蛍へ告白し、晴れて恋人同士になったことを黒沢は誰よりも茶化し、心から祝福した。
光を揶揄って飄々と笑う黒沢、彼を
二人を静かな瞳で微笑ましく見守る蛍。
職場内でも仲睦まじく言葉を交わす三人のもとへ、霜月班と葉月班の他刑事官も集合した。
「皆さん、おはようございます。あの……櫻井先輩」
「おはよう、望月刑事官。あれからどう?」
「はい。前に話した"彼氏の件"ですが」
『
蛍と同じ霜月班に今年配属された新米だ。
数少ない女刑事官同士の上、大人しめな望月を蛍はさりげなく気にかけてきた。
蛍は警察官としての能力の優秀さに限らず、後輩や同僚にも気配りの届く。
故に望月を含む多くの後輩刑事官は蛍を"先輩"と呼び慕う。
大人しくも芯の通った声色で耳打ちしてきた望月の"恋愛相談"にも、蛍は面倒見良く頷いていた。
「皆さん。集合しているかね」
刻限に入った所で、刑事部『
刑事官一同は粛然と敬礼する。
刑事部を統率する永谷部長は、一見警察官らしからぬ温厚な顔立ちの初老男性だ。
しかも、劣等コンプレックスで有名な某心理学者を彷彿させる
朝礼を簡潔に述べた部長は、自身の警察端末を震える指先で器用に操作する。
他の者達も各自の端末を開いた。
永谷から送信された電子報告書を表示する画面は空中へ照射される。
報告書の内容へ目を通した後、刑事官一同は驚きと困惑にざわめいた。
ただし、蛍一人にとっては"予想通り"だった内容を前に冷静な表情を崩さなかった。
固唾を呑む部下達に対し、部長は荘厳な声色で説明を始めた。
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