女王の首飾り

如月姫蝶

女王の首飾り

 俺は、ダイヤモンドのような涙なんて流したことはない。

 しかし、その首飾りの中央には、大きな涙の雫のような形のダイヤモンドが君臨していた。

 それこそ、巨人の女王が流した涙のようだった。


 始まりは、一本の電話だった。

 それは、あの女——真夜香まやかが入院していた病院からの一報だった。

竜崎蒼太りゅうざきそうたさんですね?あなたのお母様がお亡くなりになりました。つきましてはご遺体のお引き取りをお願い致したく……」

 俺は、病院の事務長を名乗る男の、文字通り事務的な言葉に噛み付いた。

「ふん、お断りだ!俺は確かにあの女の生物学的な息子ですがねえ、あいつは、まだ四才だった俺と親父を見捨てて、客と駆け落ちしたような雌犬なんだ!」

 夜に生きた淫魔は、その名と生き様に相応しく、真夜中に地獄に堕ちたらしかった。


 実は、真夜香が癌で入退院を繰り返していることは聞き及んでいた。

 しかし、俺は真夜香に捨てられて以来、やつとは一度も会っていないことになっている。そういう事情なので、実子が遺体の引き取りを拒否しても角は立つまい。法的にも問題は無い。

「蒼ちゃん、親指の爪を噛んじゃって……何考えてるの?お母さんのこと?」

 気づけば、らんが、猫が伸びをするような姿勢で、リビングのソファに座る俺を観察していた。

 蘭は、真夜香の数え切れない客のうちの一人の娘だが、俺と血縁は無い。そして現在、俺と彼女は同棲しているのだ。

 真夜香は、全盛期には銀座の一等地に店を構えていた。闘病の費用も自力で悠々と賄っていたらしい。母や妻としては最低だが、玄人としてはなかなかの力量だったと認めざるをえまい。

 もっとも、俺とて、五年前に金を用立てて以来、複数の飲食店を経営している身だ。

「蒼ちゃん、遺産相続はどうすんの?遺体の引き取りとは、それはそれ、これはこれ、なんでしょ?」

 そう。遺体の引き取りを拒否しても、遺産を相続することは可能なのだ。

 蘭は小賢しい。将来的に自分の店を持ちたいとかで、経営や法律をかじっているのだ。

 俺が彼女と男女の仲になったのは、小賢しいばかりか、俺が五年前に金を用立てた方法を知っている女を監視下に置きたかったからだ。

 そんな女に、俺はちょっと尋ねてみたかった。

「昨夜、病院からの電話を切ろうとしたら、事務長が妙なことを言っていたんだ。

 真夜香さんは、死の間際に、『私の体の中には貴金属が埋め込まれている。そのことを息子に伝えてほしい』と何度も仰っていた、とかなんとか……

 どういう意味だと訊いたら、遺体を引き取ればわかるんじゃないかって言われて、そう仕向けたいだけかと思って、電話を切っちまったんだが……」

「意外とお値打ち物のお宝が埋まってるかもよ〜」

 蘭は、盛ったように躍動した。

 しかし、例えばありふれた金歯や銀歯の類であっても、貴金属には違い無い。

 そして、俺にとっては、真夜香との不仲を演じ切ったほうが圧倒的に得策にして安全策なのだ。

「ねえねえ、弁護士さんにお母さんの遺産の内訳を調べてもらってるんでしょ?結果に何かヒントが隠されてるかもよ?」

 それは、蘭に言われるまでもなかった。


「お母様は、余命宣告をお受けになって以来、何と言いますか……顧客の男性や、愛弟子にあたる女性たちに、形見分けと称して、あれこれ生前贈与なさっていたようです。

 しかし、約一千万円の預貯金が確認できましたし、現時点では、借金等の負の遺産は存在しないと言えるでしょう」

「現時点では?」

 俺は、弁護士の物言いに引っ掛かって問い返した。

 伊藤いとうという、この白髪交じりの小男——まあ、評判は悪くない弁護士なのだが——との付き合いが発生したのは、俺が飲食店の経営者となって以降のことだ。彼は、俺が開店資金を用立てた方法を知らない。

 伊藤は、唇を一舐めしてから続けた。

「お母様は、とある貸金庫に、を預けておいでです。しかし、それが何なのかがわからない。貸金庫の運営者も知らないし、その金庫の鍵を持つ者でなければ確認できないルールだそうで……

 まさかそうまでして負の遺産を残すとは思えませんが、現状、未確認なのです」

「鍵?パスワードか?」

「いいえ。鍵と言いますのは、昔ながらの金属製の実物だそうですよ」

 その刹那、俺の脳裏に、あのダイヤモンドの煌めきが蘇った。

 かつて某国の女王が所持していたという豪奢な首飾り。

 真夜香は、酷い母親ではあったが、それを貸金庫に隠し持ち、死後は曲がりなりにも息子である俺に遺そうとしてくれたに違い無い。

 貴金属製の貸金庫の鍵を体内に埋め込んでいたということなのだろう。

 俺は、ダイヤモンド以上に眩い答えに辿り着いたのだ!


 真夜香が俺に突然の連絡を寄越したのは、五年ほど前のことだった。

「蒼ちゃん、元気?私は元気じゃないのよ。実は癌が見つかっちゃってね。

 こうなった以上は、あんたにお小遣いでもあげようかと思って」

 そして真夜香に持ち掛けられたのが、銀座の有名な超高級宝飾店をターゲットとする、強盗の計画だったのだ。

 既に、その店の若い警備員を一人、なんと、俺より若い男らしかったが、真夜香は誑し込んだという。

 そして、時価二十億円の、由緒あるダイヤモンドの首飾りをメインの展示品として、その他諸々の高額な宝飾品の展示即売会がその店で開催されるという情報を、事前に掴んだのだ。

「今はまだ誰も罪を犯しちゃいない。あんたも聞かなかったことにしてくれていいし、母親が妙な計画を立ててるって、警察に売ってくれてもいい。あんたにならそうされても仕方無いしね」

「ふん、俺はもう、あんたを母親とは思っちゃいないよ」

 それが俺の返答だった。つまり、警察に売るべき母親なんて、そもそもいない。

 当時人生に行き詰まっていた俺は、真夜香の計画に乗ったのだ。

 人生に行き詰まってはいても、その日まで犯罪に手を染めたことだけは無かったのが幸いした。真夜香の人脈を元に組織された、前科前歴の無い若い男四人組が、意図的に片言の日本語を発しながら、強盗の実行犯をやり遂げたのだ。その中に、俺や蘭の兄がいたのである。

 俺は、偽装工作の一環として、真夜香に誑し込まれた警備員を刺した。もちろん、死なない程度にだ。他には怪我人も死人も出さずに、俺たちはやり遂げた。

 俺たちは、首飾り以外の即売用の宝石を山分けした。それでも一億を超える小遣いを得ることができた。由緒の有り過ぎるダイヤモンドの首飾りは、売ろうとしても足が付くだろうと、「闘病の心の支えにしたい」という真夜香にくれてやったのだ。

 俺は、飲食店を開業した。今日に至るまで、警察の手は俺には及んでいない。

 しかし、コロナ禍により、俺の事業が傾いていることもまた事実だった。

 ああ、あの首飾りが恋しい。あの女がそれなりに俺を愛していた証だし、もし危ない橋を渡り切って換金できたなら、人生を一発大逆転できるだけのお宝なのだから!


「お母様がこうなる前にお迎え頂きたかったというのが、こちらとしての率直な思いです」

 俺は、病院の応接室へと通された。初対面の事務長は仏頂面だった。

 やはり母への情が湧いた。今からでも引き取りは可能かと病院に問い合わせたら、来院するようにと促されたので、俺は小躍りした。

 しかし、俺の前に現れたのは、真夜香の遺体ではなく遺骨だったのだ。

 しまった!既に焼かれていては、鍵の回収どころでは……

 ショックを受けた俺と骨壷の間に、事務長は静かに何かを置いた。

「火葬の際に発見されました。一見して鍵だとわかる形状でしたので、お渡ししておきたたかったのです」

 それは、鈍い金色の鍵だった。

 俺は有頂天となり、引き取りに必要な書類にサインする……その途中で、違和感を覚えたのだ。事務長が白手袋をはめたままでいることに。

「申し遅れました。実は私はこういう者でして、あなたに指紋のサンプルを任意提出して頂きたいのです」

 差し出されたのは、警察手帳だった。俺と面識の無い事務長に、実は刑事がなりすましていたのだ。

 そして、いつの間にやら、応接室には、屈強な男たちが幾人か入り込んでいたのだ。

 しかし、俺の前に進み出たのは、決して屈強ではなく、片足を引き摺る男だった。

「久しぶりだね、兄さん」

 それは、五年前の宝石強盗の際、俺がわざと怪我を負わせた警備員——森村拓郎もりむらたくろうだった。

「こちらの森村氏は、戸籍に記載は無いものの、あなたのお母様との親子関係が、DNA鑑定によって証明されています。そしてお母様の死を待って、我々警察へと情報提供してくださったのですよ」

 まさか、刑事の紹介で拓郎と再会するとは思ってもみなかった。しかも、俺の弟だと?

「兄さん、実はこの貸金庫の鍵はね、母さんが闇医者に頼んで一度は体内に埋め込んだけど、何ヶ月か前、癌の手術の時に取り出されたものなんだ。母さんは僕にこれをくれたんだよ、手加減を知らない兄さんのお陰で、男としての機能を失ってしまった僕にね!僕は母さんの最愛の男でもあったのに!」

 拓郎の両眼は昏く激しく燃えていた。

「貸金庫の中にあったのは、血で錆びたナイフだったよ。刃の血は僕のだ。はてさて、柄の指紋は誰のだろうね?」

 馬鹿を言うな!俺はあの時、革手袋をはめていたんだ。指紋が残るはずが無い!……なんて叫んだら、刑事は大喜びだったろう。しかし俺は、「何の話だ?」とだけ返した。

「なるほど、では、こちらのタオルの血液指紋と、あなたの指紋を照合させてください。犯人は森村氏を刺した後、返り血をこれで拭いたらしい」

 刑事の追い討ちには、俺は返す言葉も無く天を仰いだ。あの日の凶器は、蘭の兄が化学に強いからと始末してくれたはずだった。しかし、手袋を外して返り血を拭ったタオルをどうしたかなんて記憶に無い。

 そして何より、首飾りは?


 始まりは一本の電話だった。それはどうやら、弟や警察によって仕組まれた、終わりの始まりだったようだ。

 俺は結局、真夜香の掌中から逃れることすら出来ず終いの子供だったのかもしれない。



 

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