お化けが出るよ

北見 柊吾

お化けが出るよ

「あまり遅くまで起きていると、お化けが出るよ」


 母は優しい口調ながら、少しそのまんまるとして瞳を細めて、眞治によく言っていた。


「お化けなんていないもん、だってこの家誰も死んでいないもん!」


 眞治が舌を出すところまでが毎回のお決まりで、それでも母は強い口調は使わずに頬を膨らませて眞治を二階の寝室へと連れて行く。心霊的な話が嫌いな父は終始ムスッとしていて、私は小言の飛び火が来ないように二階の自室にそそくさと上がる。


 二十一時。それが、私が一番に思い出す家族の光景だった。決して裕福なわけでもなくそれでも貧困なわけでもなく、誕生日とクリスマスは少し贅沢な食事が出てくる普通の家庭。母は優しかったがとびきり綺麗なわけでもなく、父は無口だがお笑い番組を見ている時は笑い、威厳があるわけでもなく。両親には失礼かもしれないが、本当に普通の家庭だった。ゲームやコスメや好きなものをなかなか買ってもらえないもどかしさはあったが、子供ながらに満足していた。これが、普通なのだと。


「甘くて美味しい」


 甘いカレーを食べるたび、眞治は笑顔を見せた。母は「よかったわ」と言った後に「ほらお姉ちゃんも食べて食べて」と続ける。眞治はカレーが好きで、よくカレーをねだった。夕食は専業主婦である母の担当で、母の作る料理を私は楽しみにしていた。母が作る料理は美味しかった。眞治だけは舌が肥えていたのかただ単に食の好みがとことん狭いのか、よく不満を上げていた。眞治の不満のおかげでカレーは甘口だったから、辛いものが苦手な私はそれに甘んじていた。父も実は母もそれまでは中辛だったらしく、特に父は夕食がカレーの度に小さく顔をしかめる。


 私が小学校五年生、眞治が小学二年生の年に普通が立ち消えた。母が急逝した。原因は「心臓の病気」。三十六だった。

 慌ただしく親戚が来て、父が頭を下げて、白い棺が黒い間延びした車に運ばれていった。その辺りのことはショックが勝っていたせいか、あまりはっきりと覚えていない。瞳だけを大きく開いたままその光景を見ていたような気がするのだが、もしかすれば脳まで情報が届かなかったのかもしれない。


 ひとつ、はっきりと覚えているのは、私も眞治も黒い服を着て立って並んでいて、大人たちが入れ替わっていくのを見ていた時――今にして思えば、あれが母の葬式だったのだと思うが――私は眞治に訊いた。


「悲しい?」


 その時眞治がどこまで理解していたのかは分からない。しかし、まだ齢七歳の眞治は物憂げな顔で、「悲しいかも」と言った。


 それからは私と父が家事を分担し、食事の多くは弁当屋の弁当と総菜になった。父は仕事に没頭するようになり帰りが遅くなった。眞治は夜更かしをするようになった。

 私が中学に上がる年に父は再婚して、新たな母親ができた。真知子さんは優しい人だったが、私も眞治もどこか距離を感じた。やっぱり、他人が同居しているという意識がどこか抜けきらなかったのだと思う。父が子供達の前でも平気で愛人を連れ込んでいるような、そんな感覚だった。妹はそれから一年後くらいにできた。私が中学二年、眞治は小学五年生の時だった。


 父の再婚以降、私はあまり父とは折が合わず、帰る時間が遅くなった。幸い、事情を知った先生が図書室の鍵を貸してくれて、長く居残っていてもいいと言ってくれた。おかげで私と友人は図書室に溜まることが多く、帰る足もさらに重たくなった。


 そんなある日、真夜中二時頃だったと思う。私がお手洗いに起きた時、二階のベランダに人影が見えたから近付いてみると眞治がいた。ベランダに出ると、夜風が冷たかった。雲が多く星は見えなかったが、月だけは煌々と夜闇に輝いている。


「寝ないの?」


 私が声を掛けると、眞治は振り返って私を見て小さくはにかみ「眠れなくて」と言った。


「あまり夜遅くまで起きていると、お化けが出るよ」


 私は言った。


「出てくるのかもね」


 眞治はどこか遠くを見つめて言う。


「出てきたら、母さんだと思う?」


 眞治は母が死んでから「ママ」ではなく「母さん」と呼ぶようになった。


「さぁ」


 私は言った。


「そうだったら、嬉しい?」


「どうだろう」


 眞治は少し考えてから言った。


「伝えたかったことはたくさんあるから」


 そこまで聞いて、眠かった私は眞治を残して自室に戻って寝ることにした。目を瞑ろうとして、もしかすれば眞治は母に会いたかったのかもしれない、と思った。眞治は真知子さんと私よりも折り合いが合わず、ずっと距離が縮まっていなかった。彼が男の子だったからか、真知子さんも接し方には困惑しているようだった。お化けが出るよ、と言ったのは母だ。母は私以上に眞治に目を掛けていて、眞治も私は羨ましく思ったこともある。母ならば、眞治のもとへ現れてくれそうな気がした。


 夜風に当たったせいか私は真夜中ながら寝付けなくなり、昇る朝日を見た。そのまま学校に行き、授業中に爆睡して数学の中西に拳骨を喰らった。眞治はいつもと変わらずに学校に行っていた。今にして考えれば、眞治はよく夜更かしをしていたし、ベランダで涼むことは慣れっこだったのかもしれない。


 食卓に温かみのある料理がまた並ぶようになり、私も眞治もリビングからすぐに自室に上がることは少なくなった。真知子さんとは距離はあっても私も眞治も少しずつ大人になっていたから、それなりにうまくやっていた。しばらくすれば大事な相談をできるほどの関係にはなった。けれど「母」と認めるには少し胸が痛んだ。


 母について眞治と話したのは葬式の時と真夜中の時、その二回だけ。私は大学に入学して一人暮らしを始め、眞治は高校生になった。父は昔よりか老けて、真知子さんの笑顔以外の表情も多く見かけるようになった。眞治は反抗期を迎え、真知子さんに何度も当たった。


 大学に入り、私は朝方まで友達と飲むこともあった。真知子さんからはまめに連絡があった。「眞治が、ねぇ、ちょっと聞いてくれる」と愚痴も聞くようになっていた。

 バイトからアパートに帰れば、日付が変わっていることも増えた。それでも零時を回ってレポートを必死に仕上げている時なんかには、ふと母の言葉を思い出す。


 あまり夜遅くまで起きていると、お化けが出るよ。


 ふるさとから遠く離れた地だけれど、頬を膨らませた母にじっと見られているような気もする。

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