死を夢む

伯林 澪

序・Death is just the Beginning

ロシア北部・ポリャールヌイ――寒風の吹きすさぶバレンツ海のほとりにあるその街に佇む陋屋ろうおくで、ひとりの老人が死にかけていた。

風が吹きつけるかびにきしむ木造の家の片隅で、老人の碧い眼だけが炯々けいけいと、不気味に光っている。――彼は、フィンランドの生れだった。バルト海沿岸の街でそだった彼は、ある日やってきたソヴィエト連邦の兵に連れ去られ、シベリアでの苛酷な抑留生活のすえ、小さな港町に身を落ち着けて暮らしていた。

だが――ながい抑留生活は、彼の体をすっかり朽ちさせてしまっていた。肺がんを患った彼は、もうすぐこの小さな陋屋で、誰にも看取みとられないままにその生涯を終えようとしていたのだ。


――失われし懐かしき湖岸、流浪の身をも慰める……

――追憶の調べが聞こえれば、サッキヤルヴェン・ポルッカ……


彼はかぼそい声で、むかし故郷でよく聞いた歌を口ずさんでいた。――寒さに凍える彼の身体は熱を欲していたが、煤けたストーヴに薪をいれる気力も、台所に行ってあたたかい飲み物を入れる気力も、彼の枯れ木のような身体からは喪われて久しかった。

(私は、のか……畜生!せっかく生れて、シベリアの抑留生活を耐えしのんだ結果がこれか!)

その感覚が、いまさらのように彼におそいかかり、彼は歌うのをやめて心のなかでわめいた。――だが、彼の心中の熱とは反対に、彼のにぶく痛む手足は、わずかに残っていた温度をも喪おうとしていた。

(脚が――手の先が、冷たい……)

恐怖におびえる彼の眼の前で、隙間風に吹かれた硝子壜ガラスビンが一つ、棚からころげ落ちた。は死への秒読みカウントダウンのように、地面に近づいてゆく。――彼の眼には、落ちる壜の動きがいやにゆっくり見えていた。

とその時、落ちた硝子壜の動きが止まった。

同時に、彼の手足を這いのぼっていた鋭利な冷気がぴたり、と止まり――すでに色褪せていた周囲の景色がモノクロームに染まる。

彼が驚いていると、彼のすわっている朽ちかけた揺り椅子の後ろから声がかかった。

「もうのですか?――すこしばかり、気が早うございますよ」

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死を夢む 伯林 澪 @vernui_lanove

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