第3話「女神様は頑なに認めない」

 ……死ぬかと思った。


「いただきます」


「……いただきます」


 きっとあの恐ろしきバスタオル1枚の裸体に、僕でなければ、誰もが悶絶し誰もが鼻血を出して失神していたことだろう。効果は抜群だ。


 僕は浮かない心情を抱えて、食卓に並べられた食事に手をつける。

 元々、手軽なものを作るつもりでいたので、単に麺を茹でて上からミートソースをかけただけの、ミートソーススパゲティなんだけどな。


「……美味しいです!」


「そりゃよかった」


 誰かに取られることもないというのに、かなりのスピードで食べ進める美桜。

 ……なんか、リスみたいだな。うん、めっちゃ頬張ってる。


「さすが、ドーナツ屋でバイトしてるだけはありますね」


「ドーナツとパスタは関係ないと思うが?」


「そうでしょうか? 最近のドーナツ屋には、うどんやラーメン、更にはお子様ランチまでのあらゆる飲食が揃っていると聞きます」


「どこ情報だよそれ」


 美桜の無性にキラキラとした目に苦笑いが溢れる。

 学校では普段、話しかけても名字呼び。まるで“他人”のような対応をする美桜だが、実は僕に対してだけはこんなにも純粋になるのだと、きっと誰も知る由もない。


 僕だって未だに驚くことがあるぐらいなのだ。

 例えば——ちょっとした世間の進化に、こうやって知りたい本性が剥き出しになってたりとかな。後は、こういうときには、お嬢様口調が飛び出してきたりとかもだな。


「……ってかさ、こうやってプライベートで会ってるときぐらい、敬語で話すのやめてほしいんだけど」


「……難しいんです。ラフで話すのは」


 美桜はぷいっと横を向く。

 かれこれ約9年間幼馴染をやってきたが、どうやら美桜にはまだまだ積み重ねというものが、足りていないらしい。


 とはいえ、美桜の家の環境が周りと少し違っているのを前提とすれば当然か。

 ここは学校じゃないんだから、寛いでくれたらそれでいいと思ってたんだけど。

 どうやら美桜にとっては、そうでもないみたいだな。今度からはもっと楽に接しよう。


「……けど、そうですね」


 と。彼女は少し考え込み……、


「……湊君がそうしてほしいなら、もう少し頑張ってみます」


「そっか」


「その代わりと言ってはなんですが、今度のバイトの日にはドーナツ奢ってください」


「そっちが大本命だろ! 奢らないからな?」


「……ケチですね、湊君は。そんな子だとは思いませんでした」


 親かお前は!


 というか、いつの間にか学校で見るような無愛想な表情に戻っていた。この表情を学校以外で見たのは、実に9年ぶりだ。初めて会話したときとか、まるで“異物”を見るように鋭い目をしていた。まぁ無理もない。小学生の頃も今になっても、彼女は明らかに周りの人達よりも優遇な人生を送っている。それが彼女自身を“異物”と見做みなしているのだ。


 それと瓜二つ……とまではいかないが、少なからずこの表情に晴れはない。


「……でも、そうですね。もしかしたら、緊張というか湊君に会えたことに安心して、つい癖が出てしまっているのかもしれないです」


「そ、そういうものなのか? 小学生のときから、ずっと敬語だったのも」


「はい。家での習慣がいつの間にか、日常の基本になってしまっていたのかもしれないですね」


 美桜は先程の強請りの強さがどこかへ飛んでしまったように、途端に暗い表情へと逆戻りをしてしまった。


 ……日頃の癖か。確かに、小さい頃から教えられることは、感覚として脳に残りやすい。日本人の子どもに親が『箸の持ち方』を教えるのにもまず、並々ならぬ努力が必要だ。きっと、ああいうのと同じことなんだろうな。美桜にとっての話し方っていうのは。


 まぁ、急かしているわけじゃない。

 かと言って、無理にでも身につけて欲しいとも思っていない。


 僕達が美桜のことを“特別視”するように、美桜も僕達がしている言動に“特別視”をしているのだ。

 だったら、その感覚に慣れればいい。

 簡単ではないけれど、やってみる価値はありそうだよな。こんな僕に出来ることと言えば、影からのサポートだけになるかもしれないけど。


「……じゃあ、ちょっとずつ直してくか?」


「えっ?」


「その世間ずれ? ってやつをだよ」


「流行ぐらいなら、私にだってわかりますよ? 昔よりも、他人がどんな話をしてるのかとか、その流行がどういったものなのかとか、今ならはっきりと!」


 ぷにっとした頬を少し膨らませながら、美桜は親指を立てる。

 ……ほぼ無表情でそれをやられると、反応に困るなぁ。いやまぁ、可愛いんだけどさ。


「……だったらさ、先程のことを具体的に! 説明してくれないか?」


「……先程のこと。もしかして、ドキドキしましたか?」


「あぁそうだな、色んな意味でドキドキさせられたよ」


 心臓に悪い方で、それも二度と実行してほしくないドキドキだったけどな……。


「そうですか。……あれは単純に言うと、湊君に喜んでほしくて実行したのですが、それは困るみたいですし、何か違う方法を……」


 ……んん? ちょ、ちょっと待って。僕は彼女に『待った』をかける。


 僕に喜んでほしいって……何を?

 そもそもの問題として、美桜はどうして家出なんてしてきたんだ?


 当初の目的が、ここに来てやっと脳内に浮上してきた。さっきまでは、全然そんなことを訊く余裕も、聞かせてくれるような状況でもなかったしな。

 なら、改めて訊くことにしよう。


「……美桜。どうして、家出なんてしたんだよ」


 僕がその質問をした瞬間、この狭い部屋が静寂の空気に包まれる。

 美桜も考え込むように、顔を伏せてしまった。正直、ほぼボーカーフェイスを貫き通す奴だから、何を真剣に悩んでいるのかまでは、さすがにわからないが。

 そんな空気は約2分間続き、美桜は静かに顔を上げる。


「…………」


 ふぅー、と深く深呼吸をする。それほどまでに重要な事柄で家出してきたんだろうか。

 言いづらいことであれば無理に訊くことはないし、無理して話させようとも思わない。だが、どうもそういう感じでもなさそうだ。美桜は、躊躇いながらも口を開いた。


「………。私と同棲してください!」


「最初に戻らないでください!」


 まさかのカミングアウト……というより、デジャブな件に思わずずっこける。

 確かにその『同棲』っていうキーワードも気になってはいたけども、まさか冒頭に話が戻るとは予想外だったぞ……新たなパターンの発見だ。


 ——って、そうじゃなくて!


「あ、あのな美桜……。僕が訊いてるのは、お前が家出してきた『理由』なんだけど」


「……そうでしたね。では、改めて。私と同棲してください!」


「話を聞いてください!」


 や、やばい……。下手するとこれ、無限ループになりそうな感じするんだけど……。


 美桜はキョトンと首を傾げている。ということで、これでも美桜は真面目に僕の問いに答えていたつもりのようだ。いや、全然解決してないし。寧ろ難題増えてるし!


 すると、美桜は適当に崩していた足から、礼儀正しい正座へと座り直した。


「……すみません。正直、湊君のことは信用しています。それは本当です。……けど、まだ話せる勇気がありません」


「そっか。なら、帰れ。今すぐにだ」


「お断りします」


「お断るな。夕暮れまでは居ていいけど、チャイムが鳴ったらすぐさま帰宅すること。それがこの街のルールだろ」


「それは子どもが守るルールです。私には無縁です」


「僕達まだ未成年だろ。つまりはまだ子どもだってーの!」


 一向に話が前へと進捗しない。

 というか、いつの間にか美桜との小コントみたいなのが始まってしまっていた。


「……確かに、私はお荷物です。みんなと違う文化を営んで、少し世間ずれしていることも承知しています。けれど、私にだって譲れないものがあります。だから私は、湊君のお家から離れるようなことはしないつもりです」


 前を向いて、堂々と宣言されて……。

 この真城美桜という、少し変わった幼馴染と付き合いを始めて約9年。


 正直、最初はコイツの話すこととか、僕が今まで培ってきた努力とか文化とかと、明らかに違うことに動揺はした。それはもちろん、美桜も同じだった。


 お互いに知らないところを共有するうちに、次第に真城美桜という人間がわかってきた。多少抜けている部分があって、世間ずれしたお嬢様。そんな印象だった。

 ——だが、和を真骨頂しんこっちょうとしているだけあって、曲げることが嫌いだった。


 己の信念も、欲望も、願望も。

 美桜はどれも叶えようとするような……そんな、自分が決めた道を、簡単には方向転換しない。そんな子だった。

 真っ直ぐと、普段は煌めかない瞳が光沢こうたくを帯びている。


 それほどまでに真剣なんだ。

 一体どんな理由があるのかは知らない。……でもコイツの性格は、僕が1番よくわかっている。


「……期限つき」


「えっ?」


「期限つきの同居だったら、いい。どうせここの家賃安いし、誰かが同居始めても居候とかで誤魔化せる……と、思う」


 ……そうやってこられたら、僕が曲げるしかないじゃんか。

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