第3話

 薬師の制服に袖を通した私は、すぐに身の引き締まる思いが溢れてくる。


 たとえ高給目当てで就いた仕事であったとしても、人の命に関わる仕事をしているのだ。


 手を抜かない・油断しない・慢心しない、そういった思いで患者と向き合っている。


 気持ちを作るためにも、宮廷薬師の職場である小さな部屋にたどり着いたら、毎日のルーティーンを行なう。


「寝癖を直しながら歯を磨くなんて、器用な奴だな。身だしなみくらいは部屋で整えてこい」


 薬師一人ずつに診察部屋が振り分けられているので、どんな身だしなみで訪れても、普段は誰もいない。そのため、私は櫛や歯ブラシを職場に置いていた。


 ギリギリまでベッドで眠り、遅刻しないように出勤する作戦である。


 それなのに、まさかアレク様が先回りして待っているとは。ここまで徹底的に監視されるなんて、夢にも思わなかった。


「私は影が薄いですから、寝癖が酷くても何も言われません。仕事が始まるまでは、ダラけていても大丈夫なんです」

「強心臓の持ち主か? 俺が義兄になるかもしれないこと、忘れているわけではないよな」

「もちろんです。プライベートはグダグダですけど、仕事はしっかりやっていますので、安心してください」

「今のところは不安要素しかないぞ。普通はもう少し良いところを見せようとするだろ」

「お言葉ですが、色々と話が急すぎます。時間に余裕があったら、私だって良いところを見せる準備くらいはしましたよ」


 人類がもっとも油断するであろう瞬間、寝起きを見られた身としては、無理に背伸びをしようと思わない。今さら取り繕っても何の意味もないのだ。


「ニーナには常識という言葉を教えてやりたいな」

「乙女の部屋に不法侵入してきた人が何を言ってるんですか。仕事が始まるギリギリまで寝かせていただけたら、もっとしっかりした姿が見れますから」

「本当にか? 本当にもっとしっかりしているのか?」

「……任せてください」

「おい、変な間があったぞ。絶対に変わらないだろ」


 うぐっ、なかなか痛いところを突いてくる。目がもう少し大きく開きます、という事実を伝えても、納得してくれそうにない。


 圧倒的に不利な状況であることを理解した私は、ボサボサになっていた寝癖を直し、ガラガラッとうがいを済ませた。


 ようやく仕事モードに心を切り替え、予約の患者の名前を確認して、薬を調合する準備に取り掛かる。


 ……が、アレク様にピッタリとマークされていて、仕事がやりにくい。


「今から薬の調合をするので、離れていてください」

「そうか、まだ言っていなかったな。観察するだけでは暇だと思い、ニーナの助手をやることにした」

「無理な話ですね。薬師の仕事は責任が重いので、助手であったとしても、資格がない者には――」

「すでに許可は下りている。何も問題はない」


 自信満々に言い放ったアレク様は、一枚の紙を差し出してくる。そこには、難しい文言と共に薬師長と国王様のサインが記載されていた。


「偽造文書ですか?」

「どう見ても本物だろ」

「どう考えても書類の準備が早すぎますよ。私を観察すると決まったのは、まだ数時間前の話ですよね?」

「起床してすぐに目を通してもらえば、不可能ではない」

「大変迷惑な方法で書類を催促されたみたいですね」

「馬鹿を言うな。俺の弟の婚約者を決めるんだぞ。何よりも優先すべき重要案件だろう」


 薄々と気づいていたが、どうやらアレク様は重度のブラコンみたいだ。


 両家が同意していた縁談の話に割り込み、わざわざ婚約者候補を観察するなんて、正気の沙汰とは思えない。深夜に私を訪ねてきたのも、一刻も早く話を進めたかったから、という理由で間違いないだろう。


 もしかしたら、婚約の条件に提示された『愛』というのは、グリムガル公爵家の総意ではないのかもしれない。アレク様が個人的に付けた条件……なーんて、さすがに考えすぎかな。


「ちなみに、アレク様は薬師の資格を持っていらっしゃるんですか?」

「持っているはずがないだろ。今までの実績と信用だけで、強引に助手の許可をもらってきた」

「威張ることではありませんよ。宮廷薬師の試験は合格率が著しく低いので、例外は認められないはずなんですが」


 アレク様が嘘をつく意味もないし、どう見ても書類は本物だった。


「心配するな。足を引っ張るような真似はしないぞ」

「随分と自信があるんですね。普通はそんなことを言いません」

「魔法の研究は腐るほどやってきた。対象が薬草になっただけで、似たようなもんだろ」


 妙に説得力があると思ってしまうのは、実際にアレク様は大きな功績を残しているからだ。


 他国にまで名を轟かせる魔術師であり、魔法科学の発展を二百年は早めたと言われている。噂では、隣国の王女や聖女と呼ばれる人たちから求婚を求められているが、すべて断っているのだとか。


 そんな人が私の助手になるなんて。話がぶっ飛びすぎていて、まったく実感が沸かなかった。


 国が助手の許可を出したのであれば、必要以上に私があーだこーだ言うべきではないが。


「とりあえず、薬を調合してみましょうか。イムライ草と星草はわかりますか?」

「薬草の名前くらいは、一通り頭に入っている。問題はない」

「なるほど、自ら助手を志願するだけはありますね」

「当然のことだろう。あと、遠慮するな。この場は薬師の方が立場は上だ。持ってこいと命令すればいい」

「いや、それはさすがにちょっと……」

「助手に気遣ってどうする。そんなことよりも他に気遣うところがあるだろう」


 紅茶でも用意するべきだったかな、と考えていると、アレク様が優しい眼差しで見つめてきた。


「もっと女性らしく身だしなみを整えるべきだ。まだ微妙に寝癖が付いたままだぞ」


 寝癖の場所を指摘したかったのか、アレク様の手が左頬をサーッと撫でるように通りすぎ――。


「ほああーーっ!?」


 思わず、反射的に体をのけぞらせ、出したことのないような声を発してしまった。


 別に嫌だったわけではない。誰かに触られることがなかったので、混乱しただけだ。


「どうした? 左耳の髪に寝癖が付いているだろ」

「こ、これは寝癖を使ったファッションなんですよ。マイブームですから」

「……そうか。変わったブームが来ているんだな」


 ちょ、ちょっと! アレク様!? そんなはずがないでしょう!


 誰のせいで変な嘘をつくことになったと思っているんですか! 機転を利かせただけなのに、信じないでくださいよ!


 まったく、もう……。


「早く薬草を取ってきてください。その間に調合の準備をしておきますから」

「わかった。だがな、寝癖はちゃんと直すべきだぞ」


 それだけビシッと言った後、アレク様は薬草を取りに行ってくれた。


 幸も影も薄い私に女性らしさを求めるなんて、何を考えているんだろうか。そんな人は、今まで一人もいなかったのに。


 まあ、答えの出ないことを考えても仕方ないか。少しでもプライベートのマイナス評価をなくすため、仕事に打ち込むことにしよう。


 ……あと、寝癖をちゃんと直そう。心臓に悪い。

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