頁02:正しさとは

         







 嵯神さがみ 観沙稀みさき享年きょうねん26歳。独身。それが多分、私の現在だ。


 両親はともに公務員で、父は警察官、母は教師。法と倫理りんりの申し子かと言われそうだった。

 厳格でぞくっぽさを嫌った束縛そくばく家庭のお手本の様な環境で、私も分かりやすく世俗せぞくから切り離された幼少期を過ごした。

 同世代の子達が私には絶対に分からない話題で盛り上がっている。子供ながらに友達の輪の中に入りたい欲求はあった。でも皆の会話についてはいけないだろうという不安が付きまとい、ならばと私は常に孤立を選んでいた。やる事なんてせいぜい勉強くらい。

 学年順位が上がった分だけ孤立感も比例した。普通ならいじめの対象になりそうなものだが、父の肩書と母の外面そとづらの効果かそれすらなかった。

 私は勉強しか出来ない自分と勉強そのものを憎んだ。だから勉強を組み伏せる為に勉強した。

 父はただひたすら人としての正しさと法を、母は清く生きる事の素晴らしさを。

 ──まるで壊れた機械の様に常日頃つねひごろ口にしていた。


 超難関と言われていた高校に成績トップでこそなかったものの難なく入学できた高校1年の時、ある転機が訪れる。

 母がまさかの不貞ふてい行為で父と離婚した。そうなった理由なんて知りたくも無かったから未だに知らない。どこで生きているのかも、今も生きているのかすらも。

 私は父に付いて行く事を選んだ。同じ女として不貞に走った母への生理的嫌悪感からの簡単な消去法だ。

 父は警察官を辞しはしなかったが、確実に何かが壊れていた。

 正しさと法について一切語らなくなり、あまり飲まなかった酒に手を出す様になった。

 眠れないからか気絶に近い倒れ方をするほど飲んだかと思えば悲鳴の様な叫びをあげて夜中に目を覚まし、しばらくうなっては眠りまた跳び起きて。

 様子を見に行った私を母と間違えるのか、時に殴られそうになったり、泣きつかれそうになったり、───襲われそうにもなった。いずれも未遂みすいで済んでいるのは父の鋼の自制心ゆえか。

 それなのに朝には夜中の出来事が何も無かったかの様なスッキリとした表情で出勤する。

 まだ若かった私はその姿を見て『まあ多分大丈夫なんだな』と思い込んでいた。世の中に同じパターンの話が結末込みでいくらでも転がっていたというのに、ウチだけは大丈夫だとなぜか思い込んでいた。


 進学先を決めた高校3年の春、父が倒れた。説明を受けるまでも無く心も体もボロボロだった。修復出来ない程に。

 日に日におとろえ、つながれるくだが増えていく父の世話をしながら勉強だけは続けた。それしか私には無かったから。

 勤勉で浪費をしない父のたくわえとかつて母から受け取った慰謝料という名の手切れ金のお陰で進学にかかる費用の心配はなかったのが唯一の救いか。


 受験を間近に迎えたある日、父の容体ようだいが急変した。

 何に対してなのか分からない焦燥感しょうそうかんを抱え父の病院へと走る。到着した時、なんとか危篤きとく状態からは脱したと説明を受けた。

 安心したと思っていない自分がいた。

 それから数日、父は目を覚まさなかった。

 現役時代は丸太の様に太かった腕も今や私の手の親指と人差し指で作る輪っかの中に通ってしまう程に細くなっていた。

 それはいやおうでも終わりを意識させた。


 ある日の夜中、唐突に父の意識が戻る。妙にスッキリとした表情で、そして少し驚きながら私を見ていた。


「お父さん───」


 声をかけたものの、その先に何を言おうと思っていたのだろうか。開きかけた口から続く言葉は出なかった。

 目を覚ましてくれて良かった! なのか、大丈夫!? なのか。そのいずれでもない気がした。

 私が言葉に迷っているのを知ってか知らずか、先に口を開いたのは父だった。


「…みーちゃん、大きくなったな…」

「えっ」


 その呼び方は私がまだ小さかった頃の父の中での愛称あいしょうだった。まさかこの歳で言われるとは思わずに面食めんくらう。

 最後に名前を呼ばれた時は『観沙稀みさき』だったと記憶していたし、それもまだ1年以内の事だ。

 もしかしたら父の記憶が衰弱により混濁こんだくしているのかもしれない。

 父は自らの現状をゆっくりと眺め、両の手の平を自分に向けると何かを理解したかの様に目を閉じた。そして再び私の方を見ると、


「…みーちゃん、ごめんな。お父さん…


 そう、困った様な笑っているかの様な眼差まなざしで言った。

 あの頃、まだ善悪も規律も分からない幼い私と必死に戦っていた不器用な父の顔を思い出す。

 そしてこれが、父の最期の言葉だった。




 その年、私は大学受験に失敗した。





 ◆◇◆◇◆◇





 浪人期間中、私は誰の助けも一切頼る事無く生活した。

 父が管理してた財産に死亡による保険金が加わり正直働かずともいいくらいのお金はあったが、私はなるべくそれには手を付けずに仕事をしながら勉強もした。

 手を付けようと思えなかった理由は分からない。

 ただ、私の中で父の死と同時に何かが壊れた。恐らくは父と同じ様に。


『お父さん…間違っちゃったみたいだ』


 父の最期の言葉がずっと頭の中で響いている。何を? 何が? 何で? 何に? ぐるぐるぐるぐると渦を巻く。

 『正しくあれ』が口癖くちぐせの岩の様におかたい人間だった父。そして清く生きる事を自ら裏切った母。

 父は間違っていたのか。では母が正しかったのか? 違う。違うはずだ。違ってほしい。違え。

 嫌いだからこそ、憎いからこそ組み伏せ打ち倒す様に臨んできた勉強も理由が変わった。

 知りたい。知りたい。知りたい。教えてくれ。教えてくれ。教えて下さい。

 正しいって何。正しいって何だ。正しいって何ですか。正しいって本当に正しいんですか。

 何が正しければ正しい? 言葉か、行為か、誰かか、思想か、過程か、結果か。けがれが無ければ正しいのか。けがれたら絶対に正しくなれないのか。

 私はどうだ。私は正しいのか。私は間違ってるのか。誰が決める。誰が決めた。誰に決められる。誰が私の正否を決める。

 無限に続きそうな自己問答じこもんどうの中、翌年の大学受験は昨年が嘘だったかのように危なげも無く通過した。


 在学中も自己問答は続いていた。けれど他人と深く関われない毎日を送っていた私にはいつまでも答えを見つける事は出来なかった。

 それでも何か一つ自分の中に守る物が欲しかった私が選んだのは、結局は『規律を守り清くある』事だった。





 ◆◇◆◇◆◇







   (次頁/03へ続く)





        

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