ペトリコール・ペトリコール
冬雪乃
第一章 涼雨
「ペトリコールって知ってる? 」
いつもは彼女から始まるが、今回は珍しくオレから話し始めた。
「知らない、なんかお洒落な名前だね」
「ギリシャ語だよ。雨が降った後、地面から匂いするだろ? 」
「あー!あの匂いって名前あるんだ!初めて知った! 」
*
季節は夏。煽るように狂い鳴く蝉。嫌でも視界に入る蜃気楼。
その全てから逃げるように入ったラブホテル。
温度を必要以上に下げ冷房をガンガンに効かせる。
オレ達はやっと茹だるような暑さから解放され、ベッドに倒れ込んだ。
ようやく体も冷えてきたところで、彼女の顔を見つめ、軽いキスを交わした。
「確か、初めてした日は雨が降ってたね。オレの家に遊びにいく途中に降り始めてさ」
「そうそう、ふふ。びっくりしたね。二人ともビショビショになっちゃって」
自然と笑みが溢れる。
「ボク、あの匂い好きだよ。っていうより、その日から好きになった」
「どうして?」
「だってそれから… 」
言わせないでよ、と彼女の顔が赤くなる。
オレはそれが堪らなく愛おしく、嬉しかった。
少しの意地悪くらいは許してほしいものだ。
ごめんごめんと謝りながら頭を撫でる。また軽くキスをする。
「 …冷房、効かなくなったね」
「これからもっと効かなくなるよ」
今度は深くキスをした。逃すまいと彼女の首に優しく腕を回した。
反対側の手は腰に、自分にグイッと近づける。
キスは段々と、更に深みを増す。
鼻で呼吸するんだよ、と教えたがそろそろ限界だろうか。
時折声が漏れている。
彼女のシャツのボタンに自然と手が伸びる。
オレ達はベッドに沈み込むようにお互いに体を委ねた。
今でこそすんなりリードできるようになったが、最初は酷かったものだ。
目はかろうじて合わせられるものの、手なんか恥ずかしくて繋げなかった。
コミュ障童貞のレッテルを貼られた気分だった。
でも、一つ言い訳をさせてほしい。
こういう言い方をすると誤解を招きそうだが、彼女はそれくらい顔がよかった。
なんたってクラス一の美少女と言われていたのだ。
緊張するのも無理はないだろう。
彼女、茉莉雫(まつりしずく)はクラスで一番男子共に人気があった。
透き通るような白い肌に、天を仰ぐように上を向いてるクルンとした長いまつげ。
そして外国人のような彫りの深い、綺麗な平行二重。
艶のある長い黒髪はおさげになっており、彼女が動くたびにふわふわと揺れていた。
清楚な儚さを人間にしたらこうなるんだろうか。
誰もが羨む容姿そのものだった。
そんなクラスのマドンナと付き合えたオレは、一生分の幸せと彼女を交換したのかもしれない。
彼女と初めて話した日は午後のプール掃除の時間だった。
その日は特に暑くていつにも増して掃除に身が入らなかった。
掃除棒を持ち替えて、ふと彼女を見てみてる。といより、見てしまう。
いつもと変わらず美しく、可憐だった。
そうだな、一つ違うところといえばフラフラしていて顔面蒼白なところだろうか。
「いやそれ体調悪いだろ! 」
自分でツッコミを入れながら彼女の方へ急いで駆け寄る。
周りが訝しそうにこっちを見た気もするが構ってられるか。
「ま、茉莉さん、大丈夫?顔色が悪いよ」
「時雨君…?えと、うん…ちょっと気分が悪くて… 」
言い終える前に彼女はオレの方へ倒れてしまい、オレも一緒に尻もちを突いた。
幸いにも掃除が済んでる箇所で汚れは気にしなくて大丈夫そうだ。
ようやく周りがオレ達に気づき、先生を呼んでくれた。
女性教師しか周りに居なかったため、オレが彼女を保健室まで運ぶことになった。
見た目通り細くて軽かった。いやいや、そんなこと考えている場合じゃない。
早く涼しい所に連れて行かないと。邪念を捨てて保健室へと足を急がせた。
因みにオレが尻もちを突いたついでにプールサイドの壁に頭を打ち、保冷剤を貰ったのはまた別の話だ。
カーテンから漏れた光で輝くまつげを、オレは頭に保冷剤を当てながらじっと見ていた。
見ていて飽きないというのはこういうことを言うのだろうか。
ハッと我に返り、保冷剤を返却するのを忘れて保健室を後にした。
もし彼女が起きたらなんて話せばいいのか分からずキョドッてしまいそうだったから。
静かに保健室のドアを閉める。
ふう、とため息を漏らした。次に彼女と話せる機会なんてあるのだろうか。
オレみたいな隠キャにはクラスの人気者とは話す機会なんてゼロに等しい。
なんて思っていたが、存外神様とやらは気まぐれらしい。
次の日の放課後、彼女から話しかけてきてくれたのだ。
*
「昨日はありがとう。お陰様ですっかり良くなったよ」
ビート板で息継ぎの練習をしていたオレに彼女は感謝を述べた。
フリーズする。オレに話しかけてくれたのか?
成程、昨日のお礼か、納得。
この時代に珍しく男女一緒の水泳部とはいえ、全員の名前なんて覚えるの大変だろうに。
つまりなにが言いたいかって?なんでオレの名前を覚えているのか、って事だ。
「オレの事覚えてくれてたんだね。それより、体調は本当に大丈夫なの? 」
「うん、ちょっと貧血と暑さにやられただけだから。」
帽子でも被れば良かったかな、なんて独り言を呟く水着姿の彼女はやはりとても華奢だった。そんな体型でしっかり泳げるのが不思議だ。
「時に時雨くん、ビート板なんか持って何してるの? 」
やってしまった、絶望した。
水泳部に入っているのに泳げないなんて何たる暴挙。
でも泳ぐのが好きなのだから仕方ない。
「いやぁ、恥ずかしい話、オレカナズチなんだよね」
「水泳部に入っているのに⁉︎面白いね、君」
本当に、全くもってその通りである。
泳げない水泳部員。自分でも笑えてくる。
情けない話だ。彼女は「ふふ」と小さく笑った。
「良かったら泳ぎ方、教えてあげようか? 」
なんだって?彼女に泳ぎ方をレクチャーしてもらえるのか?
それは素晴らしい。話すにはうってつけではないか。
その日からオレは彼女の水泳教室(仮)の生徒になったのだ。
*
彼女の教え方はとても上手で、自分でも驚くほど上達した。
五十メートルをクロールで泳げる程に。感謝しかない。
そして喜ばしいことがもう一つ。
彼女に遊びに誘われたのだ。その日の夜、オレは部屋で一人ガッツポーズをした。
服選びに時間がかかりそうだ。
部活が終わり、帰る準備をしていると彼女がは言った。
「ねぇ、今度の日曜空いてる?良かったら一緒に遊ばない?付き合ってほしい所があるんだけど… 」
「え、オレなんかでよければ!」
つい敬語になってしまった。恥ずかしい。
そんなわけで、時刻は午後十時過ぎ。今日は土曜日だ。
つまり明日、彼女と二人で遊びに行くのである。
これって実質デートなのでは、とおこがましい考えが頭をよぎる。
少なくとも嫌いな奴を遊びには誘わないだろう。
オレはアイボリー色のシャツに黒の半袖の生地がしっかりして、それでいて涼しげなアウターを選んだ。下は足首らへんまであるスラックスを。
ふむ、悪くない。と自分でも思った。まぁ、万人受けする格好なのは間違い無いだろう。
彼女はどんな服で来るんだろうか。
明日が楽しみで、その日は遠足前の子供みたいに上手く寝付くことができなかった。
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