第10話 最後の夜に
まさに、言われなくても、だ。
夕飯の後、僕はそうした。一度出して足りず、二度出してひと心地、三度でようやく満たされる。
風呂に入った後、部屋に戻ってドアの鍵を閉め、クローゼットから刀を取り出す。
刀を抱きかかえ、机の前で椅子に座った。鍵をかけた引き出しを開け、奥から封筒を取り出す。水色の地にウサギや花が描かれた、かわいい封筒。あのとき、僕の靴箱に入れられていた手紙。
刀を机に立てかけ、椅子の上で正座をする。姿勢を正し、手紙を読む。その丁寧な字を一文字一文字読むたび、便せんに印刷されている花やキャラクターの絵に目をやるたびに、思い出す。手紙を見つけたときに感じた不可解さ、遅れて実感した衝撃。胸に湧き上がる、生まれてから一番の期待。罠と分かっていても止められないほどに。そして、当然の結末。
読み終えて、目をつむり、腹から息をゆっくりと吐く。唇をかみしめた。血の味がした。
目を開ける。刀に手をかけ、ゆっくりと抜く。手紙を二つ折りにする形で刃に当て、裂く。封筒も同じく、裂く。
鞘に納めた刀をベッドの端に置いた。その横、ベッドの上に僕は寝転がる。裂いた紙の束を、股間へとあてがった。
しばらくの後、濡れた紙を便所に流す。
もう一度風呂でシャワーを浴びた。部屋で明かりを消し、刀を抱いてベッドに入った。体が何とも温かい。いい夢が見られる気がした。
オレはポケットに手を突っ込み、背中を丸めて夜の道を歩いていた。荷物と刀は基地に置いてある。吐いた息が街灯の光の下で白く輝いた。遅い時間ではないが、道に人通りはない。
轟音を上げて電車が通るガードの下を、首をすくめて歩いた。さらにしばらく歩き、家に着く。
基地じゃなく、家。灰色の巨大な豆腐みてえな、コンクリ製の古い二階建てアパート。オレの家はその二階。
オレだっていつも基地で寝泊りするわけじゃない。なんつっても寒いし、風呂がない。今日は基地で泊まる気だったが、アイツに言ったとおり、その前に思いっきりヌいときたい。いつもならヌくだけでもまあ平気だが、明日は特別な日だ。しっかり風呂に入っておきたかった。そのために、コンビニで入浴剤まで買ってきていた。
天井の蛍光灯が切れかけた階段を上る。一番手前のドアに鍵を差し込み、音を立てないようゆっくりと回す。わずかにドアを押し開けた。中は暗い。ババアはこの時間仕事だし、兄貴も外泊が多い。
大きくドアを開け、玄関先におかれたゴミ袋を足でどけて上がった。台所で明かりのスイッチを探していたとき、足が空き缶に当たった。
缶が転がる音の後、奥の居間から声がした。
「ん……んぁ……?」
オレの顔が引きつる。ババアの声だった。今日は休みか? っつか電気ぐれーつけてろ、寝てンのか?
オレはだるまさんが転んだでもやってるみたいに動きを止めた。足を床につけたまま、その場でゆっくりと後ろを向く。玄関へ向けて一歩目を踏み出す。
「あー……誰? 竜也……じゃーないね、恭一?」
兄貴の名前に続けて名を呼ばれ、オレはまた動きを止めた。
起き上がる気配。電気がつけられ、後ろで引き戸が開けられる音。
振り向くと、居間のコタツの前でババアが寝ぼけた顔をして目をこすっていた。コタツの上にはいくつか発泡酒の缶が置かれていた。
胸の前でもつれている茶色い髪をかき上げると、ババアはあごが外れそうなほどあくびをした。目をこすりながら言う。
「久しぶり」
普通なら「お帰り」とか言うもんだろ、と思ったが。実際久しぶりなので黙っておいた。
「……オウ」
それだけ言って、オレはまた玄関の方を向く。機嫌悪くはなさそうだが、いつ変なスイッチが入るか分からない。明日を前にして、こんなとこでエネルギー使ったりテンション下げたくねえ。今ババアを前にして感じるのは、殺意よりも、面倒を避けたいって感覚だ。
そう思ったとき、オレの頬がぴくりと動いた。胸の中で何かが引っかかる。
おかしくね? 面倒の大元が目の前、っつーか背後にいるんだ。なんでそっちを避けてンだ?
オレの中で火種が灯る。顔面に力がこもるのを感じた。
なんでわざわざカンケーねえ奴を殺るんだ? 殺るべき奴がここにいるのに? そりゃ、結局殺せねーだろうなんて思ってた、前は。今は?
殺れる。胸の中でそう言い切れた。
刀がある。ここにはないが、オレには刀がある。殺すための、そのためだけの道具がある。覚悟がある。
オレの中で火が燃え広がる。火勢を強め、赤黒い炎になり、ドス黒い煙を上げながら、だんだんと。
わずかに息が荒くなる中で思う。いくか、殺るか? 素手でやるか、くびって殺すか? それとも包丁を探すか。でなきゃ、あのゴツいガラスの灰皿、あれをブン投げてやってもいい。コイツがやったように。
震える指をムリヤリ拳に握った。息を吸い、振り向く。
そのとき。何か小さな物を投げつけられて、反射的にオレは目をつむりかけた。
目の端で見えたそれはゆっくりと山なりに飛んできていた。ブン投げられたのではなく放られたそれを、オレは胸の前で受け止めた。オイルライター。鈍い銀色に光る、金属製の四角いライター。片側に羽根のような形が刻まれたデザインのものだった。
ババアは肩を揺らして笑う。
「やるよ。店でプレゼントされちゃってさー、常連さんから。あたしゃ別のん持ってっし、あんま気に入ンねーからソレ」
くれた奴もまた、コレがヤな客でさー。そう言ってババアは一人で笑った。
オレは何も言わず、口を開けてライターを見ていた。
ババアはコタツの上から取った発泡酒を口にする。三口ほど一息に飲んだ後、缶を持ったまま一つ手を叩く。
「あ、そーだ。アンタ誕生日だったっけ、そろそろ。来週か。そのプレゼントっつーコトで一つ」
拝むように片手を上げる。それから急に目をつむり、その手を顔に当てた。
「わり。来月だったっけか。ま、先払いでさ。な?」
先月だよ、と言いたかったが。その言葉は胸から先に上がってこなかった。
胸の中で火がくすぶる。黒い煙が揺れる。
ライターのフタを親指で押し上げる。キン、と高い音を立て、滑らかにそれは開いた。パチン、と軽い音を立てて閉める。
「……割と、いいじゃねぇか」
礼は言えなかった。
ライターをポケットにねじ込み、それきり何も言わずに家を出る。ババアも何も言わなかった。
背を丸め、ポケットに手を入れたまま早足で歩く。ポケットの中でライターと、買ってきた入浴剤の袋が手に触れた。それらを力任せに握りしめる。
走った。最初は小走り程度、すぐにポケットから手を出して全力で。息がタバコの煙みたいに白かった。
息が切れて立ち止まる。頬を歪め、歯をかみ鳴らした。握りしめたものを力任せに道路へ叩きつける。
入浴剤の袋は鈍い音を立てた。ライターは小さく一度跳ねて、軽い音を立ててアスファルトの上を滑った。
動きを止めたライターを見ていた。肩がまだ、大きく上下していた。しばらくして舌打ちをした後、頭をかきむしった。言ってみる。
「結局風呂入れなかったじゃねぇか。っつーか、どうしてくれンだよあのババア! ヌけねぇじゃんコレよぉ」
不機嫌を全部そのせいにして、入浴剤を拾った。少し考え、舌打ちをして、ライターも拾い上げた。
歩くうちにコンビニを見つけた。スポーツドリンクを買おうとして、ライター用のオイルを見つけてそれも買う。
基地のある川原で、転がっていた古タイヤに腰かけて。月明かりを頼りに、ライターの外カバーを外す。下側からむき出しになった綿にオイルを注ぐ。
カバーを戻し、火をつける。鮮やかな赤い火。
タバコに火をつけ、くゆらす。真っすぐに高く昇る煙は白かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます