第6話 ティッシュを取る間もなく噴き出た後で
オレは目をそらした。男の目をまともに見られなかった。その目が輝いて見えて。その奥の何かぬるりとしたものがうごめいて、光ったように見えて。
おう、殺そうぜ。そう言ってしまおうかとも思った。言ってしまう自分を想像すると、鼻血が出そうなほど鼓動が速くなった。
その一方で、頭の別な部分が考える。何言い出すんだコイツは、何やってンだオレは、と。
確かに見ず知らずの奴を突き落とすなんてバカはやった、けどそれは死ぬワケねぇって知ってたからだ。バカな話もしたが……しただけだ。会ったばかりの名前も知らない奴と人を殺す。あり得ない話だ。
大きくため息をついて頭をかいた。
「あー……なんつうか。悪ぃ、ウソウソ。さっきまでの全部ウソ。殺しなんかしねーよ、ちっとからかっただけって。オマエもあんま深刻に――」
言ったその瞬間、男が目だけ上げてオレを見る。
背筋からケツまで震えが走った。その目があんまり真っ黒で。そこだけ夜のように真っ黒で。底のない穴のようで、オレがそこに落ちていっているような気がして。そう、キンタマがなくなっちまったみたいなあの感じがした。
男は脱いだ服と荷物を抱え、何も言わず座席を立った。ドアを開け、外に出ていく。
「ちょッ……」
止めようとしても、男は振り向かなかった。
川原を遠ざかっていく背中にオレは声をかけた。
「そのジャージ、貸してやるよ。明日返してくれりゃいい」
男は立ち止まらなかった。
オレはまた言う。
「オレ、だいたいココにいるし」
男が立ち止まり、こちらを見た。
洗って返す、そう言ったのがギリギリ聞き取れた。
男が土手を上がり、その向こうに消えるまでそこにいてから、オレは車に戻った。後ろに積んでいた毛布を五枚まとめて頭からかぶる。のどの奥でうなって、頭をかきむしって、息をついた。
別にどうということはない。何でもない。フツーのことをしただけ。そのはずなのに、魚の骨がつっかえてるような感じ。自分の大事な部分にダメ出しされた気分。
なんていうか。フラれるって、もしかしてこういう感じ。や、分かンねぇけど、経験ねーし。っつーか、つき合った経験も
こんな気分になるのはたぶんアレだ。死ぬの殺すの、傍から聞いたらスゲー引かれるような話したからだ。恥ずかしがってンだ。きっとそうだ。
そう思いながら、座席の下のビニール袋に手を伸ばす。中から酒――スーパーで買った製菓用のラム酒――の小ビンを出し、あおった。
僕は鍵を取り出し、家のドアを開けた。マンションの二階。この時間家にいるのは僕一人。両親は共働き、兄弟はいない。
自分の部屋に入り、ドアに鍵をかける。電気ストーブをつけた。濡れた服を床に放り、同じく濡れたカバンをその上に叩きつけた。
ベッドに寝転がる。うつぶせの体がスプリングに揺れた。
右手の拳を上げ、べッドに振り下ろす。また体が小さく揺れた。
何で。
もう一度拳を上げ、今度は殴るようにベッドを打つ。
何でだ。何が『全部ウソ』だ。
目をきつくつむった。眼鏡がきしむのも構わず、顔をベッドに押しつける。拳を握り、何度もベッドを殴った。何度も、何度も何度も。
違うだろう、何が嘘だ。その言葉こそが嘘だ、僕をたばかるな! お前はそんな真っ当な目はしてない。
唇をかみしめる。
何でだ。お前が言い出したんだろう、殺したいって。理由は知らない、どうでもいい、きっと聞くべきでもない。それでも、殺したいんだろう?
変わるんだ、きっとそれで。何もかも。
お前が言い出したんだ、差し出した手を引っ込めるな。僕も君の話に乗せろ。乗せろ、乗せてくれ、今これを逃したらもう――
その先を想像して、ぞっとした。このままの変わらない日々。蔑むべき人間に蔑まれる日々。
何より恐ろしいのは。いつか僕がそれを受け入れてしまうのではないかということ。自分を蔑む日が、蔑まれて当然の人間だと思う日が来てしまうのではないかということ。
「畜生が……」
畜生が、畜生が、畜生が畜生が! 目をつむり、頭を何度もベッドに打ちつけた。
歯をかみしめる。布団をかぶり、目をきつくつむった。濡れたままの下着の中に手を突っ込む。そこにあるものを握り、激しく動かす。やがて、限界まで引張った糸がぷつりと切れるように。昂ぶったそれから熱いものが吹き出る。ティッシュを取る間もなく、手で受けた。
荒い息を何度かついて。借りたジャージを着たままだったことに気づき、真っ黒い気分になった。大きく頭を上げ、ベッドに打ちつける。
ティッシュで手を拭き、トイレに流しながら息をついた。なぜか、笑いが込み上げていた。長い息をつく。
「行こう」
不幸中の幸い、ジャージは汚れていなかった。脱いだそれを洗濯機に突っ込んだ。シャワーを浴びて着替え、家を出る。
オレは頭から毛布をかぶって、ラム酒をすすっていた。今ごろになって冷えてきた。どうにも体が震える。
それなのに、顔はどうにも熱かった。酔っている、もちろんそうだ。カゼをひいた、それもあるかも知れない。だが、それだけじゃないのは分かってた。
「なーんでさぁ、なんであんなこと言うかなー……マジで」
それはアイツのことであり、オレのことでもある。
なんで言うかね、一緒に殺そうなんて。なんでオレは、それをはぐらかすかね。
天井の方を向いてため息をついた。
もしも、やろうって答えてたら。オレはマジで殺したのかね?
たぶん、オレ一人じゃ殺しはしない。してぇのはホントだし、やったならそれでラクんなれると思う。その後でどーなるかは考えたくもねーけど……きっと今よっか全然ラク。それでも、オレはたぶん殺せない。「殺せたらなァ」とか「殺してぇのになァ」とか言ってるだけ。
目を強くつむり、のどの奥でうなりながら座席の上を転がった。
とか「どうやって殺そう」とか話してンだろうな。
それはすごくアブなくて、ちょっとだけ楽しそうで。想像すると背筋が震えた。
なのにここにはアイツがいない。
オレは小さく舌打ちをした。ラム酒をあおる。
そのとき、ドアが外から叩かれた。
ここの場所は誰にも教えていない。ババアや兄貴はもちろん、
外から聞こえた声はその期待のとおりだった。
「僕だ。さっきの」
体を起こし、今起こっていることについて何秒か考えた。それから慌てて毛布を払いのけ、ドアを開ける。
オレが何か言うより早く、男の頭が中へ突き出される。鼻を鳴らすと男は言った。
「酒飲んでた?」
ドアが開かれ、男が中に入る。石けんの匂いがした。ドアが閉まる音の後、オレは言った。
「風呂入った?」
男は答えず、座席に座ると紙袋を突き出す。香ばしい肉と油の香りを漂わせるそれは、ハンバーガー屋の紙袋だった。
「服の代金。洗濯中だから、返すのは待ってくれ」
「や、別にそんなしてもらわなくてもよ」
言いながら俺は紙袋を見つめていた。朝は食っていないし、昼もパン一個しか食っていない。
男はドアを閉めて中を見回す。
「毛布だの空の弁当箱だの、タオルだの着替えだの。生活感あるけど、ここ住
んでるわけ? ……遠慮するな、食えよ。僕も食う」
言って、男は別の紙袋を出した。そこから取り出したハンバーガーをかじる。買って間もないのだろう、ハンバーグから湯気が立ち、チーズが糸を引いていた。
「テメェ……オレが金持ってないと思ってンだろ」
男は指についた油をなめながらオレを見た。
「違うの?」
オレは顔をしかめ、唇をとがらせた。
「……違わねーよ。いただきます」
素早く紙袋に手を突っ込み、温かいハンバーガーを取る。紙包みを取るのももどかしくかぶりつく。温かな、油っこい肉汁が口の中を満たす。わずかに塩気が強いケチャップ、漬かりすぎのピクルス。この、いかにも体に悪そうな味。たまンねぇ。
男が袋から別のバーガーを取り、差し出した。
礼を言うのも忘れてかぶりつく。
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