餌付けのチョコタと懐かない夏井

 新入社員が入ってきたら、チョコレートで餌付けする。

 入社四年目になる私は、自分の後輩が初めてできた年からこれを必ずおこなっている。

「初めまして。私、事業部の横田。よろしくね」

 挨拶がてらに、キャンディ包みのチョコレートを一つデスクに置く。

「あ、ありがとうございます」

 今年の新入社員は、五人。

「よろしくお願いします」

 その内の一人が、夏井くんだった。


 チョコレートは便利だ。覚えることが多い新入社員に一つ与えておくと、私のことを「チョコレートの人」と認識し、すぐに顔を覚えてくれる。

「また新人にチョコで餌付けか、横田」

 部署に戻ったら田嶋課長に微笑まれた。

「いや、『チョコタ』」

 チョコレートを常備している横田だから、チョコタ。社内で付いた私の愛称だ。誰が最初に言い出したのだか知らないが、上手いことを言う。

 新人への餌付け以外にも、迷惑をかけた人へのお詫びや手伝ってくれた人への感謝など、様々なケースでチョコレートを渡す。これで大体、場が和むのだ。お陰で「チョコタ」の名前はすっかり定着してしまった。

「横田さあん!」

 呼ばれて振り向くと、今年の新入社員で隣の部署の女の子が訪ねてきていた。早速覚えてくれたようだ。

 やはり、チョコレートは便利だ。

 部署間でやりとりする書類について質問しに来たようだ。初めてなのだ、ここは丁寧に教えてあげる。ありがとうございました、と頭を下げ自分の部署に戻る彼女を見て、課長は感心した声を上げた。

「すごいな、チョコレート。本当に懐いた。真っ先にチョコタを頼ったもんな」

「パクらないでくださいね。配るのが私一人だから成立する技なんですから」

 冗談めかして言うと、課長はわっははと豪快に笑っていた。


 チョコレートで新入社員を手懐けるのは毎年恒例のことだ。この技を使って、食いつきが悪かった新人は過去にいない。

 だからこそ、今年の夏井くんはイレギュラーな存在だった。

「田嶋課長。この書類なんですが」

 アホみたいに背が高い、仏頂面の青年だ。座っている田嶋課長がすっぽり彼の作る日陰に収まっている。

「ああ、これは……いいや、横田に聞いて」

 面倒くさがりの田嶋課長はポイッと私に丸投げしてきた。後ろを向いていた夏井くんがちらりとこちらを見る。眉間に皺が寄っていた。

「横田が誰かは分かる?チョコタ。チョコを配り歩いてる奴」

 田嶋課長が私を指で示す。そこまでされてようやく、夏井くんは渋々と私の元へやって来た。

「横田さん。お忙しいところすみません。この書類なんですけど」

 やたらとかしこまって、二、三歩分の距離を開けて書類を差し出してくる。なんだその距離感は、と思いつつも説明を始める。

「この申請書はね」

 声を発したら余計に、彼はびくっと肩を縮めた。そんなに難しい話はしないのに、随分緊張している。

 一通り説明を終えると、夏井くんはぼそぼそとありがとうございました、と呟いた。すうっと去ろうとする彼を呼び止める。

「待って夏井くん。はい」

 デスクからチョコレートを出して、彼に呈した。

「リラックス、リラックス。うちの部署、怖い人いないから安心していいんだよ。頑張ってね」

 にっこり笑って緊張を解してあげようとしたのだが、なぜだか夏井くんの目は泳いでいた。チョコレートを差し出しても、受け取る手が出てこない。受け取ろうとしてくれないので、私は彼が持っていた書類の上にコロンとチョコレートを置いた。夏井くんは置かれたチョコレートを眺め、また、ありがとうございます、と小さく言って逃げるように部署を離れていった。

「すごく人見知りでしたね。表情筋が死んでるみたい」

 夏井くんの背中にぼやく。すると田嶋課長が、え?と首を傾けた。

「そうか?普通にニコニコしてたけど」

「へ?夏井くんが?いつも不機嫌顔じゃないですか」

「そんなことねえぞ、今俺のとこに来たときだって感じよかったし」

 後ろ姿だったから分からなかったが、どうやら田嶋課長に対しては朗らかだったらしい。そういえば、最初に話しかけるときも私をスルーして課長に質問しに行った。なんかちょっと、課長に負けた気がする。

「おっと、チョコタのチョコが効かない大型新人が現れたかあ!?」

 能天気な田嶋課長は大笑いしている。私の胸には雲がかかっていた。


 *


「チョコタさん、ランチご一緒していいですか?」

 夏井くんの同期に当たる、同じく新人の川崎ちゃんは例年どおり私によく懐いた。

 食堂で一緒になり、同じランチを注文して空いている席に座った。

「どう? 仕事は順調?」

「全然覚えらんないです」

「最初はそんなもんだよ。大丈夫大丈夫」

 激励しながら、川崎ちゃんにチョコレートを差し出す。彼女は無邪気に喜んでくれて、この理想的な反応は私を満足させた。逆に反応が悪かったあいつのことを、ちらりと思い出す。

「ねえ、川崎ちゃんの同期に夏井くんっているでしょ。あの子どんな子?」

「夏井くんですか? どんなっていうと……特に、普通ですよ」

 川崎ちゃんはきょとんとしていた。私は腕を組んで続けた。

「いつも怖い顔してない?」

「そんなことないですよ。笑ってるし、ふざけたことも言いますし。むしろ明るいと思います」

 信じられない。あの無愛想な夏井くんが。

「私にはそんな表情見せないけど……」

「え?なんでだろ……誰にでも愛想はいいですよ、彼」

 というと、無愛想なのは私に対してだけだったのか?

「チョコレート嫌いなのかなあ」

 川崎ちゃんに渡したチョコレートを一瞥する。川崎ちゃんは首を振った。

「それはないですよ。チョコタさんから貰ったチョコレート、嬉しそうに食べてました」

 チョコレートは悪くないのか。だとすると。

「まさか夏井くん……私のことが怖いのか?」

 ショックだ。チョコレートが効かない相手なんて、初めてだ。

 落ち込む私を、川崎ちゃんは必死に宥めた。

「怖いなんて……! なんか緊張してるんですよ、多分!」

 悔しい。私の餌付けが通用しないなんて。何者だ、夏井くん。

「絶対落とす……」

「……え?」

 目をぱちくりさせる川崎ちゃんを前に、私は誓った。

「夏井くんが私を怖がらなくなるまで、チョコレートで接近してやる……!」

 これは私の、単なる意地だった。


 *


「よう夏井くん! 仕事は慣れたか」

 翌日の昼、休憩室にいた夏井くんに詰め寄った。夏井くんはびくっと肩を跳ね、手に持っていた缶コーヒーを握りしめた。

「チョコレートあげる」

「あ、ありがとうございます……」

 怯えたように目を逸らし、顔を見ようとしない。

「新入社員歓迎会の話、聞いてる?」

「はい」

「楽しみだね」

「……はい」

「セッティングされてる店、デザート美味しいんだよ。特にチョコレート系」

「……はい」

 目を合わせてくれない。会話が続かない。

「すみません。俺そろそろ行きます。お疲れ様です」

 夏井くんはとうとう目を見ないまま、休憩室から出ていってしまった。


 *


 その翌日、夏井くんの部署に届ける書類があったのでわざわざ夏井くんの元を訪ねた。

「夏井くん、これ畑山部長に渡しといてくれない?」

「……部長のデスクに置いてもらえれば」

「置きメモ書いてくるの忘れたからさあ。夏井くんから渡しといてよ。ね、お願い」

 依頼用チョコレートをくっつけて、夏井くんに手渡す。夏井くんは渋々受け取った。しかしやはり、目を見ない。


 *


 そのまた翌日は、夏井くんがうちの部署に用事があって訪ねてきた。が、もちろん私の方は見もしないで田嶋課長宛の用事を済ませ、私が話しかける前にさっさと部署を離れた。

「夏井、手強いなあ。全然チョコタに近づかねえじゃん」

 田嶋課長がニヤニヤ笑う。私は渡しそびれたチョコレートを手にため息をついた。

「なんで怖がられてるんでしょうか……」

「毎度毎度チョコレート渡されて、辟易してんじゃねえか?」

 田嶋課長に言われて、私はなるほどと口の中でぼやいた。


 *


 だからその翌日は、チョコレートクッキーを持ってきた。

「今日は趣向を変えてクッキーだよ」

 廊下ですれ違っただけで何の用事もなかった夏井くんに、個包装のクッキーを手渡す。夏井くんは怪訝な顔をした。

「何ですか……」

「甘いものはストレスを和らげてくれるよ。新人は何かと頭使って気を遣って大変だから、労いのつもりで。食べて」

 夏井くんはやはり顔を背けたまま、仕方なさそうに受け取った。


 *


 その翌日も。その翌日も。

 新人の歓迎会の日も。

 私は夏井くんにチョコレートを押し付けて、夏井は目を合わせてくれなかった。

「歓迎会は期待してたのに……一気に仲良くなるチャンスだと思ったのに」

 私が泣き言を洩らしているのを聞いて、田嶋課長が苦笑する。

「思った以上に固いな、夏井」

「デザートのチョコアイス、シェアしようとしたらすごく嫌な顔されて逃げられたんです。流石にチョコタ凹みました」

 はあ、と大きなため息をついた。田嶋課長も難しい顔で、といっても半笑いで頷く。

「傷つくねえ。もしかしたら夏井は、チョコタの性格が単純にウゼエのかもしれねえな」

「余計傷つきます……」

 自分が新人だったとき、社内に安心して話せる先輩がいたらいいのに、と思ったものだった。だから私は、後輩たちにとってそんな先輩でいられるように、そうなりたいと思ってチョコレートを配りはじめた。実際に効果はあった。

 チョコレートは、わりと嫌いな人が少ないから。

「諦めませんけどね……」

「しつこいぞチョコタ!」

 楽しげに観戦する田嶋課長は、また豪快に笑い声を上げた。


 *


 その日の退社時刻、私は倉庫で在庫品の整理をしている夏井くんを目撃した。開けっ放しのドアから見える彼は、一人でダンボール箱を抱えていた。

「夏井くん!」

 いつもどおり、話しかける。夏井くんはちらと顔を向けたが、雑な会釈だけして作業を再開した。私はめげずに倉庫の中に入った。

「残業お疲れ様。遅くまで頑張るとお腹空いちゃうよね。はい、これ」

 鞄の中にも仕込んであるチョコレートを取り出し、差し出す。夏井くんは冷ややかな目で私を一瞥し、抱えていた箱を棚に押し込んだ。そして、心底鬱陶しそうに低い声を出した。

「横田さん。そういうのやめてくれませんか?」

 直球に、それもいちばん突き刺さるような言葉で、突き放された。

「迷惑なんですよ。本当に」

 氷のような冷たい言葉が、ぐさりと私の胸に刺さる。

 チョコレートは、わりと嫌いな人が少ない。

 でも、くどいチョコレートは、わりと嫌われる。

「……そっか、そうだよね。ごめんね」

 田嶋課長の言っていたとおりだった。私はしつこかったのだ。

 私は受け取られなかったチョコレートを握りしめ、手を引っ込めた。

「ごめん。もうやめる。ごめんね」

 本当はもっとちゃんと、謝るべきだったのだろう。自分の勝手な対抗心を押し付けて、彼の邪魔ばかりしていたのだから。だが、心臓を刺されたような言葉に胸がじくじく痛くて、ちょうどいい言葉が出てこなかった。

「私、帰るね。ごめんね。お疲れ様」

 夏井くんに背を向けた。もう、彼に必要以上に関わるのはやめよう。

 倉庫を出ようとした、そのときだった。

「待ってください、横田さん!」

 チョコレートを握ったままの右手を、夏井くんが掴んだ。

「ごめんなさい、違うんです。あなたが鬱陶しいって意味じゃないんです!」

 私の手首を握る夏井くんの手は、じわっと熱を孕んでいた。

「好きで仕方ないんです。横田さんが、好きで好きで仕方ないんです!」

 私が振り向いたとき、夏井くんの目はしっかり私を見据えていた。

「お願いします。そんな顔しないでください」

 真剣な瞳が、私を掴んで離さない。私は呆然と言葉をなくし、数秒無言のまま彼を見上げ、やがてようやく声を出した。

「……え? どういうこと」

「俺がバカで、傷つけるようなことを言ってしまって本当にすみません。誤解させてしまったようなので、弁解させてください」

 ぎゅうっと手首を強く握られる。私はただ、長身の夏井くんを見上げることしかできなかった。

「俺、好きな人ができると大好きなあまりに他のことに集中できなくなるんです。顔を見るだけでも、声を聞くだけでも、それで頭がいっぱいになってしまって、何も手につかなくなるんです」

 初めて真っ直ぐに見つめられた瞳を見て、初めて気がつく。君の瞳はこんなに大きかったのか、と。

「今は俺は新入社員で、覚えなきゃならない仕事も人の名前も、たくさんある。それなのに、横田さんのことを好きになってしまったから、仕事が上の空になってしまうんです。迷惑というのは、そういう意味です」

 彼は短く呼吸し、続けた。

「だから、なるべく意識しないように……避けるしかなかったんです」

 衝撃だった。

 夏井くんは懐かなかったのではない。とっくに懐いていたのだ。これでもかというくらい、懐いていたのだ。

「チョコレートを貰ったから、……ちょっと優しくしてもらったから好きになったとかじゃなくて。そういう心遣いをできる人なんだって思ったら、すごく尊敬したんです。そんなふうになりたいと思った。そしてそのうち、たまらなく好きになってしまいました」

 夏井くんは少し、声のトーンを落とした。

「横田さんは、誰にでもチョコレートを配る。上司にも同僚にも、俺たちみたいな新人にも。チョコレートを配られた人はたくさんいて、決して特別なことではないと、分かっています」

「うん……」

「緊張してるって分かってるから、安心させようとしてくれてるんですよね。相談できるいい先輩でいてくれようとしてくれてるんですよね」

 夏井くんは早口に、それでいて丁寧に一つ一つの言葉を紡いだ。

「底抜けに明るいようでいて、本当はそうやって誰よりも気を遣ってる。そんな優しさが見えてしまったんです」

 倉庫の静かな空間に、夏井くんの声だけが溶けていく。

「そんな優しさは、誰にでも平等だからきれいなんですよね。横田さんは誰にでもチョコレートを渡す。誰もがあなたの気遣いを知ってる。それでこそ皆のチョコタさんなのに」

 埃っぽい倉庫の暗がりが、彼の声を吸い込んでいく。

「それなのに、俺は独り占めしたいと思ってしまったんです。皆が知ってるチョコレートの味じゃなくて、俺だけが知ってる味を知りたい。皆が知ってるチョコタさんじゃなくて、俺だけが知ってる横田 愛莉を知りたい。誰よりも甘えていいはずのあなたを、俺が甘やかしたい。特別な一人になりたい、って」

 私はただ、黙って口を半開きにしていた。

 耳に届いて、脳に届いて、そのまま全身がとろけていくような、不思議な感覚がした。

 今、彼の想いを知って、自分でもようやく気がついた。

 夏井くんは特別だ。いつの間にか、特別な一人になっていた。私だって、君のことばかり考えていたのだから。

「好きなんです。ほんとにそれだけなんです。他に理由なんてないんです」

 一頻り告げて、それから夏井くんは遠慮がちに手を離した。

「でも、今の俺は社会人として未熟で、仕事もろくにできない。あなたを好きでいる余裕なんかない」

 離された手首は、外気に晒されてもまだ熱を持っていた。

「こんなダサい俺ではまだ気持ちを伝えたくなかったんです。早く仕事を覚えて、横田さんから一人前として認めてもらえるようになりたかった」

「それなのに私が話しかけるから、仕事が捗らなかったと」

「そうですよ。好きだから仕事を頑張りたいのに、好きだから集中できないんです。俺がどれだけ迷惑してたか分かりましたか?」

 夏井くんの語尾は、いたずらがばれた子供みたいな拗ねた声色になっていた。私は思わず、ふふっと笑った。

「そうだったんだ。ごめん、全然気が付かなくて」

「気が利くのか鈍感なのか、どっちなんですか」

 薄暗い倉庫でも分かるくらい、夏井くんは耳まで真っ赤になっていた。私の頬まで、ほかほかと熱くなっている。

 夏井くんはまた、真剣な目で私を見つめた。

「……そういうことですから、横田さん。お願いがあります」

 チョコレートを握った私の手を、夏井くんの大きな手が包み込んだ。

「今の俺の告白を、忘れてください」

「えっ?」

「それと、俺に餌付けするのもやめてください。早くあなたに追いつけるように仕事に集中したいので」

 夏井くんの声が、胸の奥まで浸透していく。

「あなたに相応しい男になったら、また気持ちを伝えさせてください」

 身体が熱くなる。手の中のチョコレートが溶けてしまう。

「だからそれまで、どうか待っていてください」

 真剣な眼差しから、目が離せなくなる。

「ねえ、」

 鼓膜に絡みつくような、君の声は。

「だめですか……?」

 溶けかけたチョコレートみたいだった。

 それも、甘くて甘くて、くどいチョコレートだ。

 でも、やめられなくなる。チョコレートには、薬物並みの酷い中毒性がある。

 声が出なかった。頭がくらくらして、言葉がまとまらない。私はしばらく沈黙し、夏井くんの真顔を見上げていた。それからふう、と深呼吸して、ゆっくり目を瞑る。

「だめ」

 喉に詰まる声を、慎重に発した。

 夏井くんが固まる。私はそんな彼に苦笑した。

「こんなに面白い奴、ほっとくなんてできるわけないよ」

「え……」

「明日からも引き続き餌付けするから。夏井くんは、それを耐えられるようになって」

 火照る頬を誤魔化して意地悪に笑う。夏井くんは真顔で慌てた。

「困ります、そんなの無理です、バカになってしまいます!」

 私の手をばっと離して、目を泳がせる。再び私の目を見てくれなくなった彼の胸に、私は拳をぶつけた。

「はいはい、頑張れルーキー。私を追い抜いてみせて」

 その拳を夏井くんの手に乗せて、彼の手のひらの中にチョコレートだけ残す。

「楽しみにしてるよ」

「……はいっ!」

 顔を真っ赤にして、彼はチョコレートを握りしめた。私はへらっと笑いかけ、踵を返した。

 夏井くんを残して倉庫を出て、一人で廊下を歩く。途中からすたすたと早足になって、更に駆け足になって、私は倉庫から逃げるように顔を覆って走った。

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