お印猫
示紫元陽
お印猫
「ぶどうジュースくださいな」
喫茶店のカウンターに座るなり、女性は目の前にいた男に言った。男はこの店の店主である。
「お、久しぶりだね」
「ご無沙汰してまーす」
男は一度奥に引っ込んだが、すぐにグラスを持って戻ってきた。注文した女性の前にコースターと共にことりと置く。濃い紫の水面が波打ち、照明の白がゆらりと反射した。
女性がグラスを手に取ってくるりと回すと、氷がからころと涼し気な音を立てた。そのまま口に運び、一口。甘い味が喉を通り抜けたころ、ふと目を横に向けるとカウンター横の棚に猫がいた。
「あれ、例の猫だっけ?」
「そうそう、『お
黒い猫である。頭のてっぺんから尻尾の先まで一様に黒で、薄暗い店内ではまるで漆塗りの置物のようであった。ただ、顔につけられた目だけは黄色く光っている。幼児が色塗りをしたかのようなその風貌は少し異様だったが、退屈そうに欠伸をする姿は紛れもなく普通の猫である。
「まぁ繁盛してるようでなによりだね。あの猫の力だけじゃないよ」
「そりゃどうも。でもあの猫のお陰で客が増えたのは間違いないけどね」
ちょうどその時、一人の客が席を立って会計の方へと歩いた。カウンターの横、すなわち猫がいるところである。店長は女性に断りを入れて客のもとへ移動した。
会計自体は何の変哲もないレジである。特異な点は黒猫が居座っていることだけだろう。ではその猫は何のためにいるのか。もちろんマスコットキャラクター的な立ち位置であることには違いないのだが、もう一つ重要な役目があった。
「領収書は必要ですか」
「おねがいします」
客の応答を聞き、店長は棚から領収書の紙束を取り出して一枚ちぎった。さらさらと金額と日付を記入して前に差し出す。客が確認して受け取ると店長は言った。
「そこの台の上に置いてください」
客は言われた通りに領収書を猫の足元に置くと、店長はすぐ横にあった朱肉の蓋を開けた。すると猫は前脚を朱肉につけて領収書に押印した。脚を上げると赤い肉球が紙の右下にくっきりと浮かんでいる。最後に猫はにゃあと鳴いた。
「しっかし、あれの何がいいんだろうねぇ」
客を見送って店長がカウンターに戻ると、ぶどうジュースを頼んだ女性は疑問の言葉を発した。
「まぁ、少しでも癒されるっていうんだから何でもいいんじゃないかな」
「そういうもの?」
「そういうもの」
女性は「ふぅん」と言ってグラスを傾けた。もう用事は済んだのか、さっさと片付けてしまおうとでも思っているかのようにごくごくと喉に流し込む。最後の一滴まで味わうと、女性は椅子を引いた。
「勘定お願い」
「はいはい」
先ほどの客と同じように淡々と会計を済ます。だが、彼女が最後に求めたものだけは先程と違った。
「今日もこの子の毛、一本貰ってっていい?」
「最初からそのつもりなんだろう? 別に構わんよ。この猫ももう承知してるだろうし」
「ありがとう」
女性は猫のしっぽに手を伸ばし、ぴっ、と瞬時に毛を一本抜き取った。指先で摘まんだそれを顔の前までもっていき、品定めするようにまじまじと見る。その後もう一度猫に視線を落とし、ふぅん、と呟いた女性は満足げな表情であった。
「君、本当にいい毛並みね」
その様を黄色い眼で見とどけた猫は、小さく「にぃ」とだけ鳴いた。
了
お印猫 示紫元陽 @Shallea
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