黒髪微風

森さわ

第1話



細い肩の上で、黒髪が微かな風にそよいでゆれている。


まわりの喧騒が何も聞こえなくなった……


まっすぐな鼻筋の精妙な横顔のライン、長い睫毛が重そうな、繊細な二重のまぶたを伏せ気味に、彼女は窓辺の席で文庫本を開いていた。


白い肌に映えた胸元まで伸びた黒髪が綺麗だった。


光に当たると青く光るような墨の色――


ふと、彼女・永山雅美が顔を上げ、潤んだ大きな黒い瞳をわたしの方に向けた。


途端、眉根を寄せ、汚物にたかるハエでも見たかのような表情をした……



「タマ!タマ!ちょっと話聞いてる?」


「ん?……あぁ、ごめん、聞いてなかった……」


永山雅美の表情に傷つき、めまいを起こしながら返事をした。


「もうーっ!」


絢菜に、絢菜のお腹にまわしていた腕をたたかれる。


永山雅美が文庫本を片手に、騒いでいるわたしたちの脇をすり抜け、教室を出て行った。


乗馬服でも似合いそうなすらりとした容姿……


きっとまた図書室にでも行ったのだろう。


こうして休み時間に彼女の席の近くで、わたしたちがしゃべっていても、絶対に仲間に加わろうとはしなかった。


席でぼんやりしていたなと思うと、すっとどこかへ消える。


一度、彼女のあとをつけたら、入っていった先が、図書室だった。


「……なんかさぁ、黙ってそばにいられるだけで、バカにされてるみたいじゃね?」


彼女が教室から出て行った途端、番長、美和っちが言った。


「うん、やりづらいかもぉ」


絢菜がわたしの膝の上で全然やりづらくなさそうに言った。


「でも綺麗じゃん!」


絢菜の肩の上にあごをのせて言うと、絢菜がくすぐったそうに肩を縮めた。


わたしは絢菜の席に座り、一年のときから同じクラスで仲のいい華奢な絢菜を膝の上に抱っこしていた。


「なんでいつも上から目線?って感じ」


こうだよ、こう、と、美和っちが茶髪のボブヘアをゆらして、くっとあごを上げて見せた。


美和っちのものまねらしきものは、ビタ一文似ていなかったけれど、確かに、永山さんの態度はいつも、馬上から庶民を見下ろしている王侯貴族のお姫様みたいだった。


「え~っ、でもめっちゃ……」


「うっせーよ、タマ! 綺麗ならなんでもいいのか」


「うん!」


「ふられたのにまだ未練あるの?」


「うん!ある!めっちゃあるっ!」


みんながゲラゲラ笑った……



永山雅美と出会ったのは、十六歳の春だった。


高校二年のクラス替えで同じクラスになったのだ。


なぜだか自分には場違いな女子校に入学してしまい、初めは戸惑うことも多かったけれど、女のくせに美少女が大好きだったわたしは、華やかな女の子たちでいっぱいの女子校生活がすぐ気にいった。


永山雅美は入学したときから有名人だった。


女優「永山ゆりえ」の娘であったこと、そして、彼女自身がとても美しかったことから……


たまに校内で彼女を見かけると、ビルの谷間に白雪をかぶった青い富士山を見つけたような……、梅雨の晴れ間の虹を見たような……、深い森の中で絶滅危惧種の蝶を発見したような……


そんな気持ちで、息を潜め、胸をときめかせ、わたしは彼女を見つめた。


繊細な顔立ちは見るたび彼女を別人に見せた。


甘やかなお姫様のようにも、涼やかな少年のようにも、日によっては、冷酷な女王様のようにも見えた。


うわさで聞いていたより清楚な印象だった。


うわさの内容は……、芸能関係者との華やかな交友関係があって、わたしたちとは遊び方が違っていて、だから学校なんか退屈で適当で、友だちをつくる気なんかなくて、そのうち難なくモデルか女優にでもなるのだろう……など。


だいたい聞き流していたけれど、学校に友だちがいない、ということは、興味をひかれる事実だった。


たまに見かける彼女はいつも一人だった。


笑顔など見たこともなかった。



……二年のクラス替えで、そんな憧れの美少女と同じクラスになったからには、しかも隣の席になったからには、絶対仲良くなってやるっ、とはりきり、絢菜に、


「わたし、永山雅美を落としてみせる!」


宣言をした。


が、早々と気持ちは折れた……


永山さんいい天気だね、永山さん何読んでるの?、永山さんいっしょに行かない?、永山さん、永山さん……としつこく声をかけ過ぎたのか、かろうじて小声で返事してくれていたおはようの挨拶にも、あからさまに迷惑そうな表情をされるようになってしまった。


世界史の授業中、二人で一冊、と、資料集が配られた。


早速、わたしは自分の机を永山さんの机にぴったりとつけ、間に資料集を開いて置いた。


見づらかったのでわたしが彼女のほうにからだを寄せると、永山さんはとても嫌そうな顔をし、わたしから離れるように椅子をずらした。


わたしは深く傷ついた……



「もう、止めときなよ。好かれるどころか嫌われちゃうよ」


絢菜に止められて、わたしは永山雅美から一旦退却することにした。




わたしと彼女を一気に近づけたのは、放課後の繁華街での出来事だった。


絢菜の買い物につき合い、行きつけのファミレスでお茶をし、絢菜の彼氏の純ちゃんとのラブラブ話を聞かされていたら、外はとっくに日が落ち、街のネオンが鮮やかに立ち上がってくる時刻となっていた。


ドリンクバーのドリンクでお腹をタポタポいわせながら、二人で駅へ急いでいると、突然、絢菜が、「タマ、タマ!」とわたしの腕をバシバシたたいた。


「あれ永山さんじゃない?」


絢菜の指さした方向をふり返る。


たった今渡り切った横断歩道の向こう側、たった今通り過ぎてきた飲食店街のアーケードの入り口付近に、すらりとした白いワンピース姿があって、確かに、永山さんだった。


永山さんは一人ではなく、黒いスーツ姿の女性がそばにいた。


「なんか様子おかしくない?」


絢菜が人を避けてゆれながら言った。


永山さんは、そばにいるその女性に手首をつかまれていて、そのつかまれたノースリーブの白く長い腕をくねくねとよじっていた。


二人は、駅に向かう人々と飲食店街に向かう人々の流れの妨げになっていて、人々の視線をあからさまに集めている。


「撮影?」


のんきに絢菜が言った。


「えーっ、カメラどこ……」


車が行きかう向こうで、永山さんの細身のノースリーブの白いワンピース姿が光っていた。


黒いパンツスーツの女性は、何か笑って言いながら、しつこく彼女の腕を離さない。


背が高く、胸も腰回りも大きい迫力のある女の人だ。


唇を一文字に強く結んだ永山さんの白い真顔……


「マーちゃん!マーちゃん!」


「タマ!」


わたしは車が止まったのを目の端で見て、走った。


「マーちゃん!偶然!久しぶりーっ!」


横断歩道を渡り切り、永山さんが肩にかけている黒い大きなバッグに速攻とびついた。


永山さんは大きくからだをビクつかせわたしをふり返り、一瞬驚いた表情をしたあと、からだをぶつけてきたので、わたしはバッグごと彼女を抱きとめた。


「……お友だち?」


すでに彼女の腕を離していた黒いスーツの女性が聞いた。


永山さんはつかまれていた手首を自分の胸に抱きしめて、コクリとうなずいた。


「そう、じゃ……」


女性は乱れたパーマヘアもそのままに、あっさりわたしたちに背中を向け、人ごみの中にまぎれ去り、永山さんが気づいたように、わたしからからだを離した。


絢菜がケラケラ笑いながら駆け寄ってきた。


「タマ、いきなり走り出すんだもん、びっくりしたよ! マーちゃんっ、とか言っちゃって……」


わたしも絢菜といっしょに笑おうとして止める。


「永山さん、大丈夫?」


顔色が紙のように真っ白だった。


「大丈夫。ありがとう」と、永山さんはぶっきらぼうに即答し、バッグを肩にかけ直し、頬にかかった髪を耳にかけた。


指先がふるえていた。


「なぁに、あのオバさん?」


絢菜が聞いた。


「……スカウト。断っても、しつこくて」


「……永山さん、腕真っ赤!」


わたしが指摘すると、彼女は赤く染まった右手首を、ぼんやりと見下ろした。


「お母さんが女優だって、はっきり言ってやればよかったのに」


「そうだよ! 嫌なら嫌だって、はっきり言わなきゃ!」


わたしがそう言うと、永山さんは素直にうなずいた。


「タマが、永山さんを、説教してる」


絢菜が笑った。



三人で駅へ向かい、路線の違う絢菜がバイバイと去った。


二人っきりじゃん!……と、つい口が軽くなる。


「マーちゃん、どうやって帰るの?」


「それ止めて」


鋭い声で彼女が言った。


「あ、ごめん……、永山さん……」


「……雅美でいいよ」


声がやさしかった。


「ほんとに?ほんとにそう呼んでいいの?」


勢い込んで聞いたので彼女がからだを引いた。


「わたしのことはタマって呼んで!」


「……知ってる。タマ子とかゲラ子とかでしょ……」


うつむいて、ふっと笑った。


涼やかな白い顔が華やぐ……


担任の体育教師の五島健、通称ゴトケンが、授業中、ツボにはまると、わたしがゲラゲラといつまでも笑い止まないため、「うるさいゲラ子!」「静かにしろ、タマ子!」などとよく怒鳴るのだ。


彼女が初めて見せた笑顔にテンションが上がる。


「雅美って家どこ?」


早速、雅美と呼んでみる。


雅美は、乗り換えのため、わたしが下車する駅よりも先にある、有名な高級住宅街の駅名を言った。


「やっぱりすごいとこに住んでるんだね~」


と言うと、それって勝手なイメージでしょ、と、また真顔に戻り冷ややかな声を出した。



とにかく、このチャンスを逃してなるものかと、同じ電車にゆられながら、しつこく彼女に話しかけた。


彼女はわたしのことを「松田さん」と呼び、全然タマと呼んでくれなかった。


彼女はわたしとの間に、つり革につかまる白い右腕を置いた。


電車が大きくゆれるたび、わたしの顔がその腕にぶつかりそうになった。


わたしのおしゃべりを拒否する表現だったのだろうけれど、すんなりとしなやかな肩や腕の美しさにうっとりと目が寄り目になった。


気になるのか、馬鹿力のオバさんにつかまれた手首の赤く染まった跡を、何度も左手でさすっている。


痛い?と聞くと、左手を下ろし、全然、と言った。


彼女の肩にかかっている、大きな黒いバッグに改めて気づき、聞いた。


「いつも私服に着替えてから遊ぶの?」


今日は用事があったから、と腕の向こうで答えた。



「あ、ヤッバ……、怒られる……」


車窓から駅のホームの時計が見え、思わずつぶやいてしまうと、「親、うるさいの?」と、聞いてきた。


「うるさいっていうか……」


八人家族の一人ひとりが好き勝手話している食卓を思い出し……


「うん、うるさい、とっても」と、答えた。


「雅美の家は……、お母さん、うるさい?」


お母さんと二人暮らしなのは、なんとなく聞いて知っていた。


「うるさいも何も…」


いない?、と、語尾を上げて、鼻で笑うように答えた。


今お母さんが舞台の仕事で地方に出かけていて、家に帰っても誰もいないことを聞き出すと、わたしはテンションマックスで、こう言っていた。


「うちに来なよ!」


「え?……」


わたしは雅美の大きな黒いバッグを引き、雅美もろとも電車から降ろした。


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