『妖猫〝貸し手屋〟嫁入奇譚』
龍宝
「妖猫〝貸し手屋〟嫁入奇譚」
窓から見える空が、すっかり茜色に染まっていた。
放課後の図書室。
その一角を占拠して久しい
当然だ、自分ひとりに割り当てられた仕事ではないのだから。
「――できませんでした、って馬鹿正直に言うのもねえ」
担当日でもない日直日誌を雑に放って、マキは背もたれに身を預けた。
高校生活も二年目を迎えて、よもや自分がいじめの対象になるとは、思いもしなかった。
いじめ、というと
もちろん、拒否でもすれば、さらに悪化するのだろうが。
日直にしろ何かの委員にしろ、学生が任される程度の仕事ではあっても、これだけ数が重なればそう簡単に片付けられるものでもない。
「あァ、面倒だ。面倒くさい。帰って映画見たいのに」
一年生の頃からの友人たちは――大半が他のクラスに別れてしまったというのもあるが――クラスで支配力を持つトップ・カーストたちを恐れてどうにも動いてくれない。
実際、学生のいじめなどそういうものだろう、とマキも分かってはいた。
中学の頃にも、似たような状況があったのだから。
しかし、他の人の番、とは言ってくれる。
ぐらぐらと
なら、自分にその番とやらが回ってきたとて、文句は言うまいな、と。
下校を促すように、チャイムが鳴り響いた。
紙束を見遣る。
すべて終わらせてから、いまいましいこれらを教室に置いて帰りたかったが、どうもそういうわけにはいかなそうだ。
「――お困りですか、お悩みですか?」
「――ッ⁉」
今の今まで、図書室には自分以外誰もいなかったというのに。
これには、マキの驚くまいことか。
とっさに立ち上がって声のした方に向き直れば、これまた驚き。
見たことのない、そして見たことのないほどの美少女が立っていた。
地毛としか思えない、絹のような金髪。
少々つり目ながら――これはマキも他人のことを言えた義理ではない――大きくはっきりとした双眼。
小柄だが、出るとこは出た身体で、加えてどこか
ひとつ奇妙なのは、とっくにブレザー制服に切り替わったこの学校において、少女は何故か紺色のセーラー服を着こんでいた。
「もし、お困りですか、お悩みですか?」
戸惑うばかりのマキに、少女は繰り返した。
大した声色だった。
もしも、こんな声で以て耳もとでささやかれでもしたら――。
男でなくとも、たとえ女の身であれどうにかなってしまいそうだ。
「こ、困ってるっていえば、まあそうかな。――見ての通り」
気を呑まれるのはまずい、とマキは何でもない風を装って口を開いた。
視線を切って机を見遣ったマキに、少女もわずかに流し眼をくれる。
それがまた、様になっていた。
「あたし、滝本マキ。三組で、今は、まァ色々押し付けられてたとこ――そういうあんたは?」
「私は、
「かしてや?」
手のひらを差し出すように軽く一礼した少女――李桃子に、マキは思わず聞き返していた。
「文字通り、手を、貸すのです。私は、あちらこちらでお困りの方に手を貸しております」
言って、李桃子はこちらに一歩踏み出した。
「お困りのご様子と見て声をお掛けしました次第。この場はひとつ、私が願いを
さらに一歩踏み込んで、李桃子がこちらを
マキは、甘言を振り払うように、手荒く紙束をまとめるや、それらを鞄に詰め込んだ。
「……悪いけど、遊びに付き合う気はないよ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
最初、そういう類の部活でもあっただろうかと思ったマキだったが、李桃子と名乗るこの少女の様子が如何にもおかしいのを見て、からかわれているのだと思ったのだ。
ここ最近は、あれこれと馬鹿にされることが毎日で、あるいはこういうやり口もあるかもしれない、とマキは反射のように身構える。
クラスの連中の手先かどうか、それはどうでもよかった。
ただ、見ず知らずの女にまで笑いものにされているのだと思うと、無性に腹が立った。
自分で思っていた以上に、マキは他人の言動に過敏になっていたらしい。
「手をお貸ししなくてもよろしいのですか? あなたの願いは――」
立ち去ろうとしたマキの背に、李桃子の声が掛かった。
自分はこんなにむきになっているというのに、あちらは変わらず落ち着いた声色で、それがまたマキを
「――じゃあ、もうこんな幼稚な真似をしないよう、あいつらに言っといて! 明日から、きれいさっぱり嫌がらせが止んだら、そりゃ御の字だってさ!」
振り返りもせずに言い捨てて、マキは図書室を出た。
早足に廊下を進む。
後ろから、誰かが付いてくる気配はなかった。
翌日。
登校したマキを待っていたのは、眼を疑うばかりの光景だった。
クラスのトップ・カースト連中――マキに仕事を押し付けて、嫌がらせをしていた張本人たちである――が、
それだけなら、
これまた馬鹿にされているのかとも思ったが、どうにもそういう雰囲気でもない。
マキが戸惑っていると、今まで自分を遠巻きにしていた友人や他のクラスメートまでその輪に加わり、結局少女たちの奇妙な謝罪は一日中続いたのだった。
一日にしていじめが終わったことに思い至って、マキはようやく昨日の出来事を思い出した。
放課後、慌てて図書室に足を向けるも、そこに李桃子の姿はなかった。
夢でも見たのか。
そうではない、とマキが悟ったのは、それからさらに一時間後だった。
何と李桃子が、帰宅したマキを、その自室のベッドの上で出迎えたのだ。
「あ。あんた、どうしてここに……⁉」
「これは異なことを。話を最後まで聞かずに飛び出していったのは、あなたでしょうに」
ベッドの上で泰然と腰掛けている李桃子――昨日着ていたセーラー服ではなく、着物のようなものを身にまとっている――が、驚きで固まったマキの手を取って引き寄せる。
「私は、貸し手屋でございますれば。当然、あなたの願いを叶えるために手を貸しました以上、その代価を
「なっ、ちょ――⁉」
小柄な身体に似つかわしくない
羽毛のごとき感触や甘い匂いに気を取られそうになりながら、李桃子の言葉に顔を上げて見つめる。
「やっぱり、あんたのおかげで……その、どうやったか分かんないけど、ありがと。ほんとに。それと、昨日はあんな態度取ってごめん。お代なら、お小遣いでいくらでも払うから――」
いくら感謝の言葉を口にしてもし足りないぐらいだが、とにかく謝礼を形にしようとしたマキに、しかし李桃子が首を振った。
「いいえ、それは結構。――既に、頂戴しております」
言って、李桃子がマキの眼を
「あなた様。私は、李桃子。長らく人の世に交じって〝貸し手屋〟を営んでいる、けちな
眼。
李桃子の瞳孔が、いつの間にか細められている。
「代価は、ひとつ手を貸す度に、十年その者の家で住まわせてもらうこと。私は、あなた様の願いを叶えましたね?」
気が付けば、李桃子の顔がすぐ近くにあった。
鼻先が、触れてしまいそうな距離で、甘い吐息がくすぐったい。
「私、あなた様の魂が気に入ってしまいました。そろそろ、腰を落ち着けるのもいいかもしれない、と思うほど。あなた様がお困りなら、また手を貸して差し上げましょう。何度でも、何度でも」
「り、とう――」
「もちろん、そうしていつか代価を頂けなくなった時は、あなた様の魂を差し押さえさせて頂きますけども――」
背中に回された腕が、いっそう力を増した。
「――これから、末永くよろしくお願いしますね、あなた様?」
その日から、滝本家にひとり、家族が増えたそうな。
『妖猫〝貸し手屋〟嫁入奇譚』 龍宝 @longbao
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